Home > VIEW & OPINION > 福島第一原発事故報告書に欠落している視点(株)ファンケル 常勤監査役 飛島章氏

福島第一原発事故報告書に欠落している視点(株)ファンケル 常勤監査役 飛島章氏

 2011年3月、東日本大震災に伴う高さ13メートルの巨大津波が東京電力福島第一原子力発電所を襲い、1号機から4号機までの四つの原発に繋がる全電源が喪失したことで、放射性物質が撒き散らされる事故が発生した。事故発生から一年余を経過して、四つの事故調査報告書が発表されたが、私はいずれの報告書にも何か根本的なものが欠けていると感じた。ここ8年間ほど企業の監査役を務めてきた私の関心事は、事故直後から、当原発を運転していた東京電力株式会社(東電)は法的な責任をどこまで負うことになるのか?そして、このような過酷事故を起こした会社は存続できるのか?という点にあり、事態の推移と報告書の論点に注目してきた。

 原発事故に関わる法的な枠組みは、「災害対策基本法」並びに「原子力災害対策特別措置法」、そして「原子力災害賠償法」で規定されている。前の二法は主に災害(事故を含む)予防対策に重点が置かれ、後者は災害被害者への賠償責任について定められている。それによると、原子力事業者(今回のケースでは東電)は原子力を利用する事業所(福島第一原子力発電所)にて発生した原子力災害については、その事業者の判断と費用負担において全ての事後処理を行う責任を有すること、かつ第三者に与えた損害については、国が特別に負担することを定めたものを除き全額をその事業者が賠償すること、と規定されているのである。唯一の被爆国日本が原子力の平和利用という形で原発を日本国内に建設するに当って、「原子力で金儲けするような、けしからん企業は事故を起こした場合、全ての事故処理責任と賠償責任を負うべきだ。」という強硬意見に押し切られ、原発実現のために背に腹は代えられず、かような立法に至ったと聞いていたが、事故が現実のものになってみると、関連法令との間に矛盾が多くあり、実際に事故対応過程でほとんど機能しないことが露呈した。

 法的な枠組みで最初に湧く疑問は、「火災であれば消防が消化に対応するのに、放射性物質の被害が広範囲長期間におよぶ恐れのある、より深刻な原子力災害に対処する専門の組織が無くてよいのか」という点である。原発事故後に現場で事故処理を担当したのは東電福島原発の吉田所長を始め東電従業員とその下請け企業の人たちであった。彼ら(と彼女ら)の身を挺しての働きには頭の下がる思いであるが、彼らは発電所の通常の運転要員であり、発電所の施設の配置や配管、そして機器の内部状況については熟知していたかもしれないが、事故処理について事前にトレイニングを受けていたわけではなかった。また、東電が事故処理のための特別の設備や機器、要員を備えていたのでもなかった。事故直後に、ヘリコプターから水を掛けたり、外国製の超大型消防車を急遽調達し放水を試みたり、またアメリカ製のロボットで原子炉建屋内部にアクセスを試みた様子からも、東電や行政当局側に事前の備えがなかったことを、テレビ報道によって国民が知ることとなった。国民の多くは、その備えの無さ加減に唖然とし、底知れぬ不安感を抱いたのではないだろうか。

 事故に対する備えの無さについて東電の責任に言及するのは、現行法令の条項に照らせば当然のことかもしれないが、私には余りに一方的過ぎるように思える。一般に企業が実行する、事故の予防策や事後対応は「発生確率」と「コスト」との見合いで採否が決まる性質のものであるから、一事業者として自発的に実行することには限界がある。限界を超える事柄については、新たな法令で事業者に強制するか、あるいは行政や業界団体などが設立する組織などで対応するのが、近代社会の常識というものであろう。原子力事故は、機器類の欠陥、運転者のミス、あるいは自然災害が原因で起きるだけでなく、テロや他国からの攻撃が起因となることもある訳で、国民の生命と財産を守る役割を担う国の政府が主導して、事故や災害の被害の重大性の観点から予防策と事後対処策を講じるべきと考える。

 二つ目の疑問は、無限の賠償責任が原子力事業者にあることである。日本にある10社を超える原子力事業者のほとんどは、その株式を証券市場に上場している大会社である。民間企業は、会社の純資産額を上回る損失が発生すれば、いずれ破綻(倒産)する。決算で損失が明らかになるのを待つまでもなく、「多額の損失見通し」が示された段階で「株価の暴落」⇒「上場廃止」「信用不安」に陥り、損害賠償資金を調達することすら危うくなる。賠償見積り額が大きくなれば、原子力事業者側が「会社をつぶしてもらって結構」と開き直った途端に、「原子力災害賠償法」は機能停止に陥ってしまうのである。実際に本年8月、東電は国有化された。そしていずれ他の原子力事業者も赤字転落への恐れと資金調達に窮して、同様の運命を辿ることになろう。法令で原子力事業者に無限の賠償責任を押し付けてみても、いずれは国が負担することになるうえ、破綻する電力会社の経営を国がまるごと面倒をみることになるというのでは、まことに不合理極まりない。

 原子力安全委員会や原子力保安院の役割とは何であったのか?原発産業を育成する時代であれば、原子力事業者の立場に寄り添って技術の効率性や安全性を助言する役割であっても良かったであろう。しかし、日本が世界有数の原発大国となり、かつ地震などの自然災害の脅威にさらされている日本列島に位置することを考えるなら、被害者の視点から原発の安全対策を考え、新たな体制で原子力災害に対応する役割を担うべきではなかったか。今回の事故報告書では、原子炉本体や冷却装置類の構造上の欠陥や運転操作ミスが事故の直接的な原因であったという指摘はなかった。この点はスリーマイル島やチェルノヴィリのケースとは異なる。間もなく発足する原子力規制委員会が、全電源喪失を回避する方策や緊急時の「ベント」起動対策について対応することになるのであろうが、同委員会や原子力技術者の方々に期待したいのは、国民の安全確保という立場に立った「新たな技術マネジメント」のことである。日本では原子力関連技術の専門家と行政官僚、そして政治家(国会議員)との間のコミュニケーションが全く確立されていない。このため、原発という近代技術で生み出された文明の利器が有する事故のリスクと起こりうる悲劇に対し、国のレベルで有効な手が打たれていない。国民の生命と財産を脅かす被害を最小にするための知恵を結集する、技術と法制度を結合する技術マネジメントが必要なのである。

 もし、あの時までに「いかなる事故も起こりうることを前提に、過酷事故につながる事態を早期に収束し、被害を最小に抑える」ための備えをし、事前に訓練をし、万が一の場合の避難の計画を立てていれば、原発をめぐる状況はもっと穏やかなものになっていたのではないか。放射性物質による汚染から避難を余儀なくされた住民の人たちの物的心的負担は、ずっと小さなものになっていたのではないか。ガレキ受け入れに反対する住民の声も小さくなっていたのではないか。「脱原発」の大合唱となるような事態も回避できたのではないかと、私は考えるのである。国民の原発に対する厳しい意見は、原発の技術的な安全性に対する疑問からではなく、実は政府と、政府に対して法制度で枠をはめている立法府の、両者に対する不信感から生じているのではないのかと、私は考えるに至った。

 原発に関する国民の生命と財産を守るために企業を律する法制度を持っていなかったことが、今回の福島原発事故の最大の教訓であることを認識するなら、立法府はそのことを反省し、事故報告書に謳うべきであった。たとえ国の方向が「脱原発」に向かおうと、一度運転開始した原発は稼働非稼働にかかわらず、完全に廃炉処理が終わるまでの数十年間、福島原発と同様の、あるいはそれ以上の事故のリスクを抱え続けるのである。今からでも遅くないから、否、今だからこそ原発の安心安全を確保するための法制度の見直しに取りかかるべきではないか。

Home > VIEW & OPINION > 学ぶ意欲と想像力/森 健一氏

メタ情報
フィード

Return to page top