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2012-09

幹細胞による再生医療の最先端/東京女子医科大学 岡野光夫教授

 2012年度(前期)「イノベーションフォーラム21」の第6回は、東京女子医科大学の岡野光夫教授による『幹細胞による再生医療の最先端』というお話でした。
 これは、細胞シートを用いてさまざまな疾病の治療を行うという技術であり、再生医療は世界各国で進められていますが、シート状にして大きな面積にして治療の幅を大きく広げている技術を世界で初めて開発したのが岡野教授です。
 その画期的な技術がいかにして可能になったのか、岡野先生は最初に、混合と融合の相違を話されました。これが、この技術、この講演の核心であると、私は受け止めました。
 混合は、技術においては、異分野の技術を組み合わせるものであり、すでに広く進められています。それは、異分野の研究者、技術者の共同作業によって行われます。すでに非常に多くの成果が得られています。
 岡野先生は、融合は、その混合とは異なるものであると明言されました。融合とは何か、これは異分野の技術がまさしく溶け合うものであり、混ぜ合わさるのとは大きく違うとおっしゃいます。では、どのようにすれば溶け合うのか。それは、みなが力を合わせる単なる共同作業ではなく、一人の研究者、技術者が異なる分野の技術を完全にものにして、それを基に開発を行うことによって可能になります。先生は、「ダブルメジャー」という言葉を使われました。つまり、一人の人間が二つの専門を持つことです。
 その典型が岡野先生です。先生は、大学のご専門は化学でした。しかし、大学院の頃から、医療に結び付く材料の研究開発に取り組んで、やがて、東京女子医科大学に入られました。つまり、医療の世界にご自身で飛び込んで、医学にどっぷりと浸かることになったのです。化学と医学のダブルメジャーです。それこそが、細胞シートの開発に活かされました。
 日本は、内視鏡、CT、MRIなどの医療機器においては、世界で大きな力を持っています。これは、混合つまり共同作業で進められて、成果が上がりました。しかし今、患者を外から扱うのではなく、患者の、つまり人間の内部にまで入り込むことが、医療では求められています。言うまでもなく、遺伝子や細胞そのものを扱うのです。
 ところが、そこに医学ではなく、工学的な発想が必要になってくる場合があります。細胞シートがその典型です。再生医療の基になるのは、細胞です。医薬品や医療機器など、人間が作り出すものではなく、人間そのものを治療に利用しようというのが、再生医療です。
 しかし、細胞そのものはごく小さなものです。それでは限界があるので、大きくしたい。そこで必要になったのが、工学的発想です。工学は、モノをいくらでも大きくします。具体的には、小さく薄く作った細胞を奇麗に剥がして重ねるための化学材料を見つけだしました。それを、何層も重ねると大きなシートになるのです。
 医学的なニーズがある、それを工学的に解決出来ないかと模索して生まれたのが、細胞シートです。このシートの積層は、いま30にもなっていて、これは将来、臓器を作る可能性をもたらします。
 現状では細胞シートは、角膜、歯茎などから、心筋症、食道ガン、さらに肝臓、膵臓などの治療にまで進んでいます。要するに、細胞シートを患部にペタッと張るのです。重い心筋症のために、外置の人工心臓が離せず、外出が難しかった患者が、歩いて学会発表に顔を出せるまでに回復したという映像を見せていただきました。
 先生が所長をなさっている先端生命医科学研究所(TWIns)は、東京女子医科大学と早稲田大学が共同で設立した研究所です。数年前に、新経営研究会のこのフォーラムで、早稲田大学のロボットの研究開発で著名な高西淳夫教授にご講演をお願いして、早稲田にお伺いしましたが、高西先生はTWInsにも研究室をお持ちで、この立派な研究所を見せていただきました。これこそが、まさに融合の拠点です。
 このTWInsで、若い研究者たちが、張り切って斬新な研究テーマに挑戦しているのを見て、私は「ここには新しい風が吹いている」と感じて、それを早速、コーヒーブレイクに入る前に皆さんに申し上げました。日本全体に、新しい風を吹かせたいものです。

福島第一原発事故報告書に欠落している視点(株)ファンケル 常勤監査役 飛島章氏

 2011年3月、東日本大震災に伴う高さ13メートルの巨大津波が東京電力福島第一原子力発電所を襲い、1号機から4号機までの四つの原発に繋がる全電源が喪失したことで、放射性物質が撒き散らされる事故が発生した。事故発生から一年余を経過して、四つの事故調査報告書が発表されたが、私はいずれの報告書にも何か根本的なものが欠けていると感じた。ここ8年間ほど企業の監査役を務めてきた私の関心事は、事故直後から、当原発を運転していた東京電力株式会社(東電)は法的な責任をどこまで負うことになるのか?そして、このような過酷事故を起こした会社は存続できるのか?という点にあり、事態の推移と報告書の論点に注目してきた。

 原発事故に関わる法的な枠組みは、「災害対策基本法」並びに「原子力災害対策特別措置法」、そして「原子力災害賠償法」で規定されている。前の二法は主に災害(事故を含む)予防対策に重点が置かれ、後者は災害被害者への賠償責任について定められている。それによると、原子力事業者(今回のケースでは東電)は原子力を利用する事業所(福島第一原子力発電所)にて発生した原子力災害については、その事業者の判断と費用負担において全ての事後処理を行う責任を有すること、かつ第三者に与えた損害については、国が特別に負担することを定めたものを除き全額をその事業者が賠償すること、と規定されているのである。唯一の被爆国日本が原子力の平和利用という形で原発を日本国内に建設するに当って、「原子力で金儲けするような、けしからん企業は事故を起こした場合、全ての事故処理責任と賠償責任を負うべきだ。」という強硬意見に押し切られ、原発実現のために背に腹は代えられず、かような立法に至ったと聞いていたが、事故が現実のものになってみると、関連法令との間に矛盾が多くあり、実際に事故対応過程でほとんど機能しないことが露呈した。

 法的な枠組みで最初に湧く疑問は、「火災であれば消防が消化に対応するのに、放射性物質の被害が広範囲長期間におよぶ恐れのある、より深刻な原子力災害に対処する専門の組織が無くてよいのか」という点である。原発事故後に現場で事故処理を担当したのは東電福島原発の吉田所長を始め東電従業員とその下請け企業の人たちであった。彼ら(と彼女ら)の身を挺しての働きには頭の下がる思いであるが、彼らは発電所の通常の運転要員であり、発電所の施設の配置や配管、そして機器の内部状況については熟知していたかもしれないが、事故処理について事前にトレイニングを受けていたわけではなかった。また、東電が事故処理のための特別の設備や機器、要員を備えていたのでもなかった。事故直後に、ヘリコプターから水を掛けたり、外国製の超大型消防車を急遽調達し放水を試みたり、またアメリカ製のロボットで原子炉建屋内部にアクセスを試みた様子からも、東電や行政当局側に事前の備えがなかったことを、テレビ報道によって国民が知ることとなった。国民の多くは、その備えの無さ加減に唖然とし、底知れぬ不安感を抱いたのではないだろうか。

 事故に対する備えの無さについて東電の責任に言及するのは、現行法令の条項に照らせば当然のことかもしれないが、私には余りに一方的過ぎるように思える。一般に企業が実行する、事故の予防策や事後対応は「発生確率」と「コスト」との見合いで採否が決まる性質のものであるから、一事業者として自発的に実行することには限界がある。限界を超える事柄については、新たな法令で事業者に強制するか、あるいは行政や業界団体などが設立する組織などで対応するのが、近代社会の常識というものであろう。原子力事故は、機器類の欠陥、運転者のミス、あるいは自然災害が原因で起きるだけでなく、テロや他国からの攻撃が起因となることもある訳で、国民の生命と財産を守る役割を担う国の政府が主導して、事故や災害の被害の重大性の観点から予防策と事後対処策を講じるべきと考える。

 二つ目の疑問は、無限の賠償責任が原子力事業者にあることである。日本にある10社を超える原子力事業者のほとんどは、その株式を証券市場に上場している大会社である。民間企業は、会社の純資産額を上回る損失が発生すれば、いずれ破綻(倒産)する。決算で損失が明らかになるのを待つまでもなく、「多額の損失見通し」が示された段階で「株価の暴落」⇒「上場廃止」「信用不安」に陥り、損害賠償資金を調達することすら危うくなる。賠償見積り額が大きくなれば、原子力事業者側が「会社をつぶしてもらって結構」と開き直った途端に、「原子力災害賠償法」は機能停止に陥ってしまうのである。実際に本年8月、東電は国有化された。そしていずれ他の原子力事業者も赤字転落への恐れと資金調達に窮して、同様の運命を辿ることになろう。法令で原子力事業者に無限の賠償責任を押し付けてみても、いずれは国が負担することになるうえ、破綻する電力会社の経営を国がまるごと面倒をみることになるというのでは、まことに不合理極まりない。

 原子力安全委員会や原子力保安院の役割とは何であったのか?原発産業を育成する時代であれば、原子力事業者の立場に寄り添って技術の効率性や安全性を助言する役割であっても良かったであろう。しかし、日本が世界有数の原発大国となり、かつ地震などの自然災害の脅威にさらされている日本列島に位置することを考えるなら、被害者の視点から原発の安全対策を考え、新たな体制で原子力災害に対応する役割を担うべきではなかったか。今回の事故報告書では、原子炉本体や冷却装置類の構造上の欠陥や運転操作ミスが事故の直接的な原因であったという指摘はなかった。この点はスリーマイル島やチェルノヴィリのケースとは異なる。間もなく発足する原子力規制委員会が、全電源喪失を回避する方策や緊急時の「ベント」起動対策について対応することになるのであろうが、同委員会や原子力技術者の方々に期待したいのは、国民の安全確保という立場に立った「新たな技術マネジメント」のことである。日本では原子力関連技術の専門家と行政官僚、そして政治家(国会議員)との間のコミュニケーションが全く確立されていない。このため、原発という近代技術で生み出された文明の利器が有する事故のリスクと起こりうる悲劇に対し、国のレベルで有効な手が打たれていない。国民の生命と財産を脅かす被害を最小にするための知恵を結集する、技術と法制度を結合する技術マネジメントが必要なのである。

 もし、あの時までに「いかなる事故も起こりうることを前提に、過酷事故につながる事態を早期に収束し、被害を最小に抑える」ための備えをし、事前に訓練をし、万が一の場合の避難の計画を立てていれば、原発をめぐる状況はもっと穏やかなものになっていたのではないか。放射性物質による汚染から避難を余儀なくされた住民の人たちの物的心的負担は、ずっと小さなものになっていたのではないか。ガレキ受け入れに反対する住民の声も小さくなっていたのではないか。「脱原発」の大合唱となるような事態も回避できたのではないかと、私は考えるのである。国民の原発に対する厳しい意見は、原発の技術的な安全性に対する疑問からではなく、実は政府と、政府に対して法制度で枠をはめている立法府の、両者に対する不信感から生じているのではないのかと、私は考えるに至った。

 原発に関する国民の生命と財産を守るために企業を律する法制度を持っていなかったことが、今回の福島原発事故の最大の教訓であることを認識するなら、立法府はそのことを反省し、事故報告書に謳うべきであった。たとえ国の方向が「脱原発」に向かおうと、一度運転開始した原発は稼働非稼働にかかわらず、完全に廃炉処理が終わるまでの数十年間、福島原発と同様の、あるいはそれ以上の事故のリスクを抱え続けるのである。今からでも遅くないから、否、今だからこそ原発の安心安全を確保するための法制度の見直しに取りかかるべきではないか。

包みの技術を軸に、多様なニーズ・材料への対応に挑む / 東洋製罐

 2012年8月24日は、横浜市にある東洋製罐横浜工場を訪問した。東洋製罐は、金属缶やPETボトルなどの飲料・食品・生活家庭用パッケージの世界的メーカーとして知られている。飲料や食品の消費者として、缶・ボトルなどの包装容器に日常触れているものの、中味に対比して容器への関心度は必ずしも高くないのが現実である。近年の技術開発により、包装容器がガラスからスチール、アルミニウム、PETへと大きな変貌を遂げており、自動販売機とコンビニの普及と相まって、容器入りの飲料や食品による日常生活の利便性が格段に進歩した。その中心となって新商品を開発してきたのが東洋製罐であり、その優れた商品開発力の原点が何なのか、またどうやって継続的に新商品を開発してきたのかは、どの企業にとっても多大の関心がある。今回は横浜工場で、主力商品であるPETボトル、TULC缶、熔接缶などの生産ラインを見学し、新製品開発の歴史をお聞き出来ることを期待した訪問した。

 最初に経営企画本部 経営企画部 佐藤一弘部長より会社概況が説明された。部品、機械、製品などの主要企業8社を核とした連結企業は57社あり、人員は7,000人、売上は7,300億円。製品別では包装関係が6,102億円、地域別では日本が6,424億円と国内中心である。

 単体での売上は、3,251億円、人員は4,500人、国内に14工場を有している。容器の運搬は空気を運ぶようなもので、長距離の運搬はコスト的に不利なため、ユーザーの近くに工場を建てた。用途別では、飲料が69%、食品が18%、生活用品が8%等と、飲料用途が多い。容器の種類は、メタル、PET、フィルム(フレキシブル・パッケージ)などがある。海外生産は未だ低く、タイに集中しているが、中国へも進出した。

 次いで、辻裕英横浜工場長より、横浜工場の概要説明を受けた。横浜工場は1963年に設立され、敷地は63,475㎡、従業員は365人いる。第一工場で金属缶を、第二工場でPETボトルを年間21億個生産している。東洋製罐が開発したTULC缶は、アルミやスチールのような従来缶に比べて大幅な改善となった。従来法を100%とすると、炭酸ガス発生量は84%に減少し、水は0%と全く使用しなくなり、かつ廃棄物は0.3%に減少した。   

DVDによる横浜工場の概要説明があった後、工場見学に移った。

①   第二工場(PETボトル製造)

280㎤~2リットルのボトルを製造している。容量が小さくなると経済的に不利なので、どの程度の容量が現在では限界かと尋ねたところ、500㎤程度との返事であった
。これはPETボトルが米国で始めて市場に出た1978年に、筆者が独自に見積もった数字と一致したので、状況は当時と余り変わっていないと認識したが、後のパーティーで別の技術者に確認したところ、金型の改良によるプリフォーム数の増加(最大144個)等の技術進歩により、280㎤でも経済性が出るとのことであり、その後の技術進歩が確認出来た。

  1. プリフォーム成形工程 1回の射出成形で96~144個のプリフォーム成形が可能。
  2. 異物検査工程
  3. ノズル結晶化工程 高温充填の際に変形しないようノズルの部分を結晶化する。この工程の後一時保管し、次の工程にかけるプリフォームの温度を均一化させる。
  4. ブロー成形工程 
  5. ボトル検査工程 見学時に計器に出ていたブロー成形工程での不良率は0.00032%と低い。全工程でも0.1%以下。
  6. パレット包装工程

②   第二工場(TULK缶製造)

  1. プレス工程 金属コイルからカッピングに成型する。
  2. 絞り工程 カッピングを3段階で筒状に絞る。
  3. トリミング工程 縁を切る。
  4. 印刷工程 凸版印刷で8色の印刷可能。各社毎の異なるデザインを印刷する場合には、母型を手動で交換する。切り換え時の印刷間違えを避けるため、検出機能プログラムを動かすこともある。
  5. 外面研磨工程
  6. 缶口絞り工程

 

 工場見学修了後、常務執行役員 テクニカル本部 伊藤譲二本部長のご挨拶をいただき、次いで執行役員 テクニカル本部 末俊雄副本部長による「東洋製罐の開発、包みの技術を基軸に、多様なニーズ・材料に挑む」と題した講演をお聴きした。

 創設者高崎達之助の思想を反映したグローバル経営ビジョンは、「包みのテクノロジーを基軸として、人類の幸福・繁栄に貢献する先進テクノロジー企業をめざす」と制定していて、テクノロジー重視のものづくり企業としての姿勢が表現されている。

 会社設立は1917年、国内14工場を有し、海外は容器生産で8社、アジアが中心であるが、包装材メーカーとしては、世界で売上第三位の地位を占めている。

 PETボトルでは完全循環システムを採用しており、使用済みボトルから新ボトルに戻すため、PRT社でPETを分解し、DMT(Dimethyl Terephthalate)ではなくBHET(Bis-2-hydroxy Ethyl Terephthalate)に変換している。

 包装材料以外の新事業として、ライフサイエンス(細胞培養など)、ナノテクノロジー、IT分野にも挑戦している。

 研究開発体制としては、ネットワーク活用を重視している。グループ内に総合研究所を有し、新コア技術の研究を行っている。ここの成果をテクニカル本部に移管して、実用技術開発を進めているが、テクニカル本部でも必要あれば基礎研究から始めることもある。総合研究所は1961年に設立され、グループ8社で運営している。包装容器や新事業のために研究を実施している。

 東洋食品研究所では、食の資源・科学・加工に関する研究を行っており、容器内容物の殺菌法なども研究対象となっている。2010年に公益法人化され、東洋食品短期大学が付属している。

 テクニカル本部は1966年に発足したが、2012年に、それまでの容器分野別の組織が、技術分野別に改組された。7階建ての建物に入っているが、2階アネックスでは、顧客による充填・殺菌テストが実施されている。

 東洋製罐では、包装容器は生産と消費の橋渡しが役割と位置づけられている。日本には包む文化があり、卵のつと、おひねりなど一種の民族文化となっている。

 会社の歴史の中で、沢山の包装容器が開発・実用化されてきた。講演の中で数多くの開発技術・容器が説明されたが、ここではその中から極一部ではあるが、筆者の記憶に残ったもののみ記載した。

①TULC缶

1991年に上市し、その後進化・発展してきた。当初は内部に貼る延伸PETフィルムを購入していたが、無延伸フィルムを自社生産するようになった。絞り工程は当初3工程必要としたが、現在は1工程で可能。炭酸ガス発生量の減少、水の使用量ゼロ、廃棄物が0.3%に減少などの実績により、環境賞を2度受賞した。

軽量化では、熔接缶31グラム→TULC缶27グラム→TULC DC缶22グラム→TULC MIST缶18.2グラムと達成してきた。MIST缶は、陰圧缶でも打検(缶を叩いた音で欠陥を検出する検査法)が可能なように、微陽圧化したもの。

②   TEC200

リシール可能なキャップ付きTULC缶。

③   水無平板印刷

従来は凸版印刷で120線/インチで印刷していたものを、線数を大幅に増やし、しかも

水無平板で印刷が可能になった。ラベル缶には、グラビア印刷したフィルムを貼り付けている。エンボス缶では、陰圧缶ではキラキラ感を出し、陽圧缶では強度アップをしている。

④   プラスチックボトル

ボトルの開発は、バリア性をプラスチックにどう付与するかの技術開発史である。新製品として、検便、喀痰検査用の検査容器がある。技術開発例としては、複数の樹脂が境界部分で重なるように厚み変化をさせることで、容器色のグラディエーションが可能となった。PETにハイバリアー蒸着し、酸素、炭酸ガスの透過性を低下させた。オキシブロックでは、酸素吸収剤を利用し、熱いお茶の色が酸素で黒ずむことを防止している。圧縮成形法で、品質のバラツキの少ない工法を見いだした。取って付きのPETボトルでは、1.8リットル入りで10グラムの軽量化に成功した。

⑤   カップフレキシブルパッケージ

オキシガードカップ レトルトをホット状態で置いても、酸素による影響が少ない。

レトルトパウチ 電子レンジ対応のパッケージで、アルミ箔は使用せず、自動蒸気抜き孔が開いている。

⑥   充填・殺菌技術

酸素を入れない充填、アセプテック充填、NS充填(殺菌剤を使用しない加熱殺菌が可能)、自己陽圧化機能付与などの技術を開発した。

今回の訪問で、今まで飲料・食品の中味にばかり気を取られ、うっかり見過ごしてきた包装容器には、様々な先端技術や工夫がなされており、世界のトップスリー企業の一員として、東洋製罐が新製品開発の先頭を走って来たことが良く理解出来た。その背景には、創業者の志が企業のビジョンに反映され、それを技術開発で実現させようという経営者および技術者の強い意志があった。包装容器は、生産者と消費者を繋ぐ橋渡しであり、食品の味や安全性、耐久性を守るために必須の役割を果たして来た。運搬や貯蔵に便利な包装容器なしには、今日の消費文化はあり得なかったことを実感出来た。

 包装は、古来日本では相手への心遣いを表現する手段として、大切に守られて来ており、包装が文化として定着している。東洋製罐はその文化を、飲料や食品の流通段階で、消費文化を支える技術として普及させて来た。これからのグローバル競争の中でも、その精神を継続発揮し、日本文化としての包装容器で、世界のリーディングカンパニーとしての存在感を期待することが出来た(文責 相馬和彦)。

 

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