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新経営研究会

大型電力貯蔵用リチウムイオン電池の開発と普及を目指して/エリーパワー 吉田博一社長

《と   き》 2013年9月25日 
《講  師 》 エリーパワー株式会社 代表取締役社長 吉田博一氏
《コーディネーター》 放送大学 名誉教授 森谷正規氏

 

 2013年度前期「イノベーションフォーラム」第6回は、エリーパワーの代表取締役社長である吉田博一さんから、「大型電力貯蔵用リチウムイオン電池の開発と普及を目指して」というお話をいただいた。

 このエリーパワーは、平成18年に創業された企業であり、まさにベンチャー企業であるが、資本金が310億円で、これまでにはない最大級の規模のベンチャー企業の出発である。お話の全体を通して、じつにスケールの大きい内容であるのに非常に驚いて、さらに、エネルギー革新に寄与したいという強い想いから出発した創業であるのに強く感動した。
リチウムイオン電池は、日本が世界に先駆けて開発したのだが、いまのもっぱら携帯情報機器用の小型の電池では、サムスンなど海外企業に追いつかれ、生産量では抜かれている。だが、これからの本命は、乗用車用の中型と定置用の大型、超大型電池であり、来るべきエネルギー革命の中核になると予想されるものだ。その新しい需要では、日本が再び大きくリードすると期待できると、心強いお話であった。
 そして技術開発もさることながら、吉田さんの経営戦略がじつに見事であり、まさしくベンチャー企業が持つべき革新性に溢れている。驚くことは、吉田さんは住友銀行(現三井住友銀行)の副頭取を務めた銀行マンであり、技術はシロウトであったことだ。後に述べるが、シロウトの恐るべき力を発揮された創業であり、これは最も注目すべき点である。
 この創業における革新性に溢れた経営戦略は、多岐にわたっているが、それぞれを簡単に示す。
 第一は、リン酸鉄を用いる方式のリチウムイオン電池であり、これは安くはできるが性能的には不利(エネルギー密度でやや劣る)であるとされて、日本のほとんどの大企業は無視している型であることだ。しかし、量産性に優れ、資源的には全く問題がないという有利性から、大型の電力貯蔵用には最適であると判断した。
 第二に、安全性を最も重視したことだ。リチウムイオン電池は、航空機の事故でも明らかになったように安全性に問題が残っている。電力貯蔵用の大型では、これが絶対であるとして、安全性の確保に最大の努力をした。
第三に、ともかく安く提供できることが必要であるとして、そのためには相当に大きな量産規模が必須であると、なんと300億円の資金を調達して、創業して間もなく大規模工場を建設した。市場が育っていない中で、リスクを取る勇気があったのだ。
 第四に、ベンチャー企業は創業者がリスクを取る代わりに、上場すれば非常に巨額の創業者利得が得られるというかたちにするのだが、それがほとんどない社会事業的なビジネスモデルにしたことだ。それであるからこそ、巨額の資金が確保できたのであろう。その出資者は、吉田さんが示した理想を共有する多岐にわたる企業である。
 第五に、追い上げてくる韓国や中国などへの技術流出を防ぐために、量産設備を完全にブラックボス化するとともに、極度に自動化した量産によって、生産に携わる人員を極小にした。これまでの種々の技術における流出は、人の流出によって生じている面が大きいのである。
第六に、顧客のニーズに基づいた製品創造ではなく、顧客ニーズには頼らず、自ら市場を創っていくという製品創造に狙いを定めていることだ。これからの社会で必要とされるであろう製品を、先取りして創っていくのである。
これは、今の日本の企業が新しい方向を目指すべき戦略として挙げられるもののほとんどを含んでいると言えよう。ベンチャー企業は当然ながら、大企業、中堅企業も変わっていくべき時代であり、新たな戦略が必要であるが、まさしくそのモデルとなるのが、エリーパワーであり、創業者吉田博一である。
それが、技術にはシロウトの経営者によって実現された。ここにこそ、新しい道を進もうとする企業が取り入れるべき要点がある。
 ここであえてシロウトとするのは、クロウトの皆さんに警告を発するためである。私が野村総研にいた非常に古い話であるが、当時はアメリカの最高の知識人とされた著名なハーマンカーンの話を聞く機会が何度もあって、一つのことが今も鮮明に記憶に残っている。それは、「知り過ぎていることによる能力の欠如」であり、巨大なアマゾン川の水力発電所の開発では、先進国の技術者たちは適切なシステムを設計することができない」ということであった。
 日本の幹部級、トップクラスの技術者たちは、非常に豊富な経験と知識を持っている。それが、新しいことへの挑戦では、むしろマイナスになるのではないか。それを深く思わなければならない。吉田さんのように、真っ白のキャンバスに絵を描くように、挑戦したいものである。
なお、吉田さんは、ある面では大変なクロウトである。それは、お金を集めることであり、また大企業のトップと会って話して説得する能力である。大銀行で修行して副頭取まで務めたのであるから、その力は非常に優れているはずだ。
 このような産業界の超ベテランの方々が大勢現れて、強い想いを持って、まったく新しい事業を始めて下されば、スケールの非常に大きい事業となって、日本の産業、経済は大いに元気を出すに違いないのだが。

 (文責:森谷正規)

旭化成の先端素材の研究開発LIB開発秘話/旭化成 訪問

《と   き》2013年6月6日

《訪問先 》旭化成(株)旭化成住宅総合技術研究所(静岡県・富士市)
 
《講  師 》旭化成(株) フェロー 吉野彰氏
《コーディネーター》テクノ・ビジョン代表、元帝人(株)取締役 研究部門長 相馬和彦氏 

 

 平成24年度後期の第五回は、平成25年6月6日に旭化成の富士支社を訪問した。事情により昨年度の予定が延期されていたが、今回実現に至った。富士支社は、旭化成の新規事業の拠点であり、先端技術研究所、基盤技術研究所、住宅総合技術研究所などの研究所群ばかりでなく、電子材料、バイオ医薬品などの製造工場もある。今回の訪問ではリチウム電池用分離膜の開発に成功した同社フェロー吉野彰氏の講演をお聞きし、併せて住宅総合研究所の見学を行うこととなった。

旭化成は、日本の化学企業の中でも、技術開発に勝れた企業として広く認識されている。歴史的にも多くの新商品、新技術の開発実績があり、リチウム電池用分離膜はその延長上に位置している。リチウム電池の開発秘話ばかりでなく、旭化成の技術文化そのものにも触れる得難い機会と期待した。

最初に吉野彰氏より、パネル写真を示しながら富士支社の紹介があった。富士支社の敷地には、昭和34年にカシミロン工場が創業されたが、操業停止後は機能性製品工場と研究開発拠点として活用されてきた。感光材、基板材料、電子材料、エポキシ、バイオ医薬品など新規事業関連製品の製造工場がある。コーポレート研究の拠点としては、先端技術、先端電池材料、次世代部品開発、先端エネルギー材料などを対象にした研究開発を行っている。また、ホームズ住宅総合研究所もある。地域活動として、いのちの森やホタル祭りを通じて、自然や命の大切さをうったえている。

次いで住宅総合技術研究所およびモデルハウスの見学に移った。

①事務所棟での概況説明

研究所は2007年10月にオープンした。敷地内には、それぞれ音響、温熱、耐候耐久、屋内構造、技術開発を実施している研究棟が5棟ある。隣接する環境開発ゾーンでは、密集して植樹し、競合させて強い木を育てている。

住宅事業は当初ソ連から導入した技術を用い、シリカチットの製造から始めた。シリカチットは製造困難なことが判明したため、現在のヘーベルに変更したが、最初から材料製造だけでなく、住宅そのものを手掛けたかった。住宅のデザインは時代の嗜好に合わせて変化しており、それぞれのデザインが小型模型で示されている。

事務所棟は免震構造となっており、地下でそれが見学できた。積層ゴムところがり機能の組み合わせによる免震機6台で建物を支えている。ただ、津波で舟が建物にぶつかるような横方向からの力には弱い。

ヘーベルはトバモライト結晶構造をしている。トバモライトは、スコットランドのマル島、トバモリーで天然石として発見されたため、この名前が付いた。

②環境試験室

 住宅が丸々1棟入る大きさの人工気象室。-20~50℃、湿度30~90%の試験が可能。③構造試験棟

 4mx4mの水平振動台で、一方向の振動の影響を試験する。静的加圧試験では、高さ10m、横18m、厚さ1.5mの壁に100トンまでの静圧をかけ、強度試験をしている。

④耐候耐久試験棟

 屋上には小型サンプルや壁の一部を使って光触媒の効果を試験中。1階では、散水試験で夏の強い日射後の夕立の影響やドライビングレインで風速40mまでの暴風雨模擬テストを実施している。

⑤モデルハウス

 3階建てで、3階に非日常的な空間を持っているモデル。最近では、ヘーベルハウスは年間10,000棟を越える売上になった。

 

住宅総合技術研究所見学から戻った後で、吉野研究室室長 旭化成フェロー 吉野彰氏より「旭化成の先端素材開発とLIB開発秘話」と題した講演を伺った。

 旭化成は時代の変化に応じた中期事業計画を立て、それを実行して来た。近年の中期計画の変遷を簡単に纏めると、

 1999-2002 選択と集中

 2003-2005 選び抜かれた多角化

 2006-2010 拡大・成長への事業化ポートフォリオ転換

 2011-2015 For Tomorrow 2015 世の中のこれからのニーズを先取りし、新たな機会を獲得する。「昨日まで世界に無かった価値」を提供することにより、2兆円を目指す。

 これを実現するための基本戦略としては、事業の成長を追求し、そのため制度・仕組みの革新を行う。具体的に述べると、以下のようになる。

1.事業戦略 成長の追求

 ①グローバルリーディング事業の展開 既存事業の役割

・  アクリルニトリル 触媒重合技術の優位性活用

・  S-SBR(溶液重合SBR) 地球環境問題での優位性

エコタイヤで燃費効率が良い。

海外売上比率目標 2010年62% → 2015年69%

・  LIB用セパレーター、感光性ドライレジスト、LSI等も含まれる。

 ②新しい社会価値の創出 新規事業の役割

・  環境・エネルギー LIB用セパレーター、センサー、省電力LSI,断熱材、

膜・水処理等

・  住・くらし 住宅、不動産関連、リフォーム

・  医療 医薬、血液浄化療法(人工透析、アフェレシス)

以上3領域の融合プロジェクトを推進する。

2.制度・仕組みの革新 oneAK経営の推進

 上記①と②の合計で、売上と営業利益を2010年の1.5兆円、1,200億円から2015年にはそれぞれを2兆円、2,000億円に増加させる。

 旭化成におけるリチウムイオン電池の研究は、歴史的に振り返ると1981年のポリアセチレンに端緒がある。研究から事業化までの段階は以下の通りであった。

 1981-1985 基礎研究段階

 1986-1990 開発研究段階

 1991-   事業化段階

1981年にポリアセチレン(PA)の研究を開始した。PAの研究を続けていると、負極に使えそうになったので、次は正極材料を探索したが、当時リチウムイオンを含んだ正極はなかった。1980年になり、LiCoO2が新しい正極材料として始めて報告された。1983年にPA/LiCoO2の組み合わせで二次電池が誕生したが、PA負極は密度が低く軽量化には良いが、小型化はならず、また化学的に不安定なこともあって、負極としては断念せざるを得なかった。そこで他の負極材料を探し、不飽和二重結合を有する材料としてカーボンに着目し、VGCF(気相法炭素繊維)が使えることが分かって漸くプロトタイプのLIBが誕生した。

 1986年にLIBの安全性を野外実験で確かめることになった。開発へのgo/no go を決める重要な試験であったが、金属球を電池に落下させても発火せず、安全であることが確認され、LIBの開発・事業化へ進むことが決定された。

 負極にカーボンを使用するアイデアの発明者は誰かを出願特許内容から分析すると、多くの出願特許がすぐ近くをかすめていることが分かる。それらの出願は何かが僅かに足りなかったり、本質の理解が少々不足したりで、現在のLIBと比較すると惜しい出願が多い。其の中で旭化成が正解に辿り着いたのは、辛抱強く継続し、旨く行かなかった場合でも諦めず、リカバリーショットを打ったことが勝因となった。過去の技術開発の歴史でも、似たような目標を同じ時期に数社が同時に追求した例は多い。しかし、成功するのは、結局最後まで諦めずに挑戦した企業である。そういう歴史的事実が、今回の旭化成の例でも確認出来た。

 事業化が視野に入ってくると、事業化戦略の立案が必要となる。この段階で採った旭化成の戦略は大変ユニークであった。3つの方策を同時に実行し、その中で成功と失敗を経験したが、利益相反を伴う3方策を同時に実施したのは、極めて希な例であろう。

1.東芝と共同で電池を事業化 → 結果的には失敗した。

2.材料は単独事業として事業化 → セパレーター事業として成功。

3.ライセンス事業の推進 → 10数社とライセンス契約締結

 LIBのエネルギー密度は1992年の200Wh/Lが2010年には600Wh/Lに増え、もはや限界に近い。電池の価格も300円/W/hが20円/W/hに急落している。

 これから何を研究したら良いか、魅力ある新規テーマは何かに悩む毎日であるが、特許出願数の変化を見ていると、次の波が見えてくる。LIBへの流れを決めたのは、外的要因であった。1990年からの第一世代アナログ携帯では、電池容量は5.5ボルトだったので、LIBは2本必要となり普及には壁があった。1995年以降第二世代のデジタル携帯になって、電池容量は3ボルトあれば使用可能となった。これが決定打となり、LIBが普及した。

 同じようなことが現在起こりつつある。IT変革からET変革に移っているのではないか。EはEnvironment & Energy。そうだとすると、決定打となる外的要因は何か?ということになる。IT変革の時のように、ET変革を起こしうる技術マップを作成して考えていれば、方向が見えてくる。例えば次世代の二次電池は、電池構成技術x周辺技術x電極技術の融合になるのではないか。

 講演終了後、質疑応答の時間を持った。要旨のみ以下に纏めた。

①事業化時に、3つの相反する施策を行ったが、顧客とのバッティングは、判断の際に優先順位が低い企業文化なのか?

 → 社内でも驚くような決定だった。

②これからのET変革をもたらす外部要因を捕まえるためには、どうしたら良いか?

 → 材料メーカーとセットメーカーには、考え方に大きな差がある。両方からアプローチすれば良いが、実際には難しい。そこで、研究者としては、a)幅広い視野を持つ。周辺で起こっていることを見る。b)感性も関係するので、どんなに忙しくても頭を真っ白にする。受け止めるために、頭の準備をしておく。ことであろう。

③電気自動車は2020年で400~500kmの走行距離が可能になるか?

 → 電池だけでなく、周辺技術、電極技術などとの合わせ技で実現すべきものである。

④電池の安全性は今の延長上で大丈夫か? 新しい技術が出てくるか?

 → 大型用途は、安全性ではマイナスだが、広いスペースの活用が可能というプラスがある。燃える、燃えないではなく、熱暴走を防止することが重要。未だ熱暴走は十分に解明されていない。

⑤日本はinnovativeな素材開発だけでは勝てない。LIBは摺り合わせ技術である。材料は1社で全部やった方が良いのか?

 → 素材開発は日本に客先があるかどうかで決まる。自動車がこの地位を保てるかが問題。電池メーカーの技術も、材料による差別化がなくなって来ている。材料を1社が全て持てば、客先はコスト交渉力が低下するので嫌がる。

 

 今回の訪問では、旭化成におけるLIBの研究開発から事業化までのプロセスを詳細に伺い、吉野さん個人の研究者としての志の高さや執念を強く感じるとともに、それを許容する会社の懐の深さや企業文化も同時に印象に残った。伝導性ポリマーの研究は、ほとんどの化学企業が同時期に研究開始したが、1社抜け2社抜けて、10年間我慢して成功するまでやりきった企業は極僅かであった。

新規製品や新規事業の創出は、正に茨の道、苦労の連続である。その中で成功する研究者(企業)と成功しない研究者(企業)を分ける決定的な要因がある。一つは止めろと言われても、価値がないと言われても、何と言われようが自分が信じる道、夢、志を諦めずに頑張る研究者が存在するかどうかである。もう一つは、研究者の無謀な挑戦に対し、口では止めろ、そんなモノはもうかるはずがないと言いながら、研究者が自から止めると言わない限りやらせておく懐の深さを持つ経営者である。この二つを含む企業文化そのものが、成功するか成功しないかの鍵になる。こういう文化を有する企業からは、継続的に新規製品、新規事業が生み出されていることは、世界的にも周知の事実である。どちらが欠けても、成功はおぼつかない。今回の訪問では、その事実を再確認することが出来た。

「成功とは、成功するまで続けることである」(松下幸之助)

(文責 相馬和彦)

 

新時代へ向けたリコーの事業・経営構造改革/リコー近藤史朗会長

《と   き》 2013年8月29日 
《講  師 》 株式会社リコー 代表取締役 会長執行役員 近藤史朗氏
《コーディネーター》 放送大学 名誉教授 森谷正規氏

 

 どこでもオフィスを目指して経営改革 

「イノベーションフォーラム21」の2013年度前期第5回は、リコーの代表取締役会長である近藤史朗さんのお話であり、『画像機器のデジタル化と新時代へ向けたリコーの事業・経営構造改革』というテーマであった。近藤さんは、1990年代から2000年代にかけてリコーを急拡大させた主柱となったデジタル複写機を開発された方であり、また2007年に社長に就任して、折からの厳しい経済環境の中で、新しい時代へ向けてリコーの経営改革を成功させた功績が非常に大きい。
リコーは、日本の大半の企業がそうであるが、早くからミング賞を受賞して
TQCに大きな力を注いできた。つまり、モノづくりの絶えざる向上を強く指向していた。ところが、90年代に入って、経済バブル崩壊もあって、業績が急速に悪化した。それは、モノばかりではなく、コトが重要であることの認識が遅れて、変革ができなかったことによるものだと、近藤さんはおっしゃる。
 時代は、モノ+コトに変わってきて、それに基づいてビジネスモデルを変革させないといけなかったのだ。コトというのは、機能の十分な発揮であり、サービスを強化することである。それを実現した企業の具体例をいくつも挙げたが、代表的であるのがアップルであり、日本の大手電機メーカーとは、この点において非常に大きく異なる。
 その他に、保守、整備をビジネスに取り込んだGE、コンピュータシステムKOMTRAXでサービスを充実させたコマツ、インバーターの省エネサービスで大きな成果を挙げている日立などを挙げた。今のイノベーションは、コトを取り込んでこそ実現するという。 ところが、イノベーションジレンマに気をつけねばならないとも言う。それは、客の声が必ずしも真実ではないことだ。客の要望に一つ一つ応えていこうとすることでは、機器が複雑化するばかりであり、真のイノベーションは実現できない。
 そこで、リコーのような業種において最も重要であるのが、オフィスの未来を描くことである。その基本は、「どこでもオフィス」であると言う。いつでもどこでも、オフィス業務ができるようにすることだ。それを目指すことによって数多くの新しいシステムが生まれた。顧客の企業のオフィス業務を手助けするMDS(マネジメント・ドキュメント・サービス)、どこでもすぐにセッティングできてネットワーク機能を持ち小型で持ち運びが容易なプロジェクションシステム、いつでもどこでもだれとでも会議ができるビデオ会議システム、LEDをフルに活用する照明のエコソリューションシステムなどである。
「未来起点で創造し、今を変革する」という言葉で、リコーが目指すイノベーションを締めくくられた。

知識創造型オフィスを創る
こうしたイノベーションを実現する技術開発のあり方についての話もされた。まずは、90年代に自らが行ったデジタル複写機の開発であるが、それまで近藤さんはファクシミリの開発に専念していた。ところが94年に突然、複写機を開発するよう命じられた。それに抗して、会社を辞めようとまで思ったが、夫人にそれを言うと、「辞めていいわよ」とあっさり言われて、逆に思い止どまったという。
 ファクシミリの製品開発で次々と大きな成果を挙げていて、会社としては、将来性が非常に大きい複写機に、エースを投入しようということになったのであろう。それまでリコーは、複写機ではキヤノンなどと比べて、はるかに劣勢であった。
 そこで、まずは価格競争力を高めることだが、「コストは1、2割下げるのは困難だが、半分にはできる」ということをある人に言われて、V=F/Cに思いついた。価値Vは機能Fを価格(コスト)Cで割った値であり、機能を格段に大きくすればいいということだ。そこで、CDラジカセのように多くの機能を持たせようと、複写機にファクシミリとプリンタの機能を加えることにして、それをデジタル複写機としてまとめて製品にするという発想を持った。
 そこで開発されたのがMF200であり、この画期的な新機種が圧倒的に顧客に支持された。リコーの業績はたちまち、鰻昇りに上がっていった。
 この大成功で、リコーはデジタル化戦略に邁進することになった。デジタル化は、言葉としては誰でも言い始めていたが、きわめて大きな実績があって、デジタル化へ大きく動き始めた。
 そのデジタル化の中に、開発のありようの非常に大きな変革も入っているのが、驚かされる新鮮な話であった。それは、「作らずに、創る」というのである。「作らずに」とはどうゆうことであるのか。「せめて郡山にしてくれ」と言ったというジョークを話されたが、新製品開発に際して、それまでは試作機を千台も作っていたというのだ。仙台(千台)はいかにも多すぎるというジョークである。
 そこで、試作機ゼロを目標に掲げた。CADを駆使して、バーチャルな試作をやって、試作機をできるだけ無くそうというのである。そのために、設計プロセスの改革を行った。 近藤さんは、NHKの「プロジェクトX」に皮肉を言われたが、我武者羅に開発に突き進むのは美談ではあるが、どのようなやり方で開発するのか、そのプロセスこそがいまでは重要であるという。確かに大成功すれば美談になるが、やり方がまずくて、なかなか成果がでずに立ち遅れしまったとい事例も多いのだろう。
 効果的、効率的な開発のプロセス、そのありようは、非常に重要なことであり、これはしばしば見落とされているのではないか。先に、「イノベーションのジレンマ」という話が出たが、これは「イノベーションの落とし穴」というべきものだろう。落ちないように気をつけないといけない。
 新しいものへ、新しいやりかたでチャレンジするのが、イノベーションをもたらす。その基本は、将来を見通すことであり、リコーとしては、「知識創造型オフィスを創る」ということであると締めくくられた。

(文責 森谷正規)



古代日本の超技術、あっと驚くご先祖様の智慧  静岡理工科大学 志村史夫氏

《と   き》 2013年7月19日 
《講  師 》 静岡理工科大学 教授 志村史夫氏
《コーディネーター》 放送大学 名誉教授 森谷正規氏

 2013年度第4回例会は、静岡理工科大学 教授をされている志村史夫氏をお囲みした。

 志村史夫さんは、異色の研究者である。半導体の結晶に関して、米国でまとめられた半導体技術発展の歴史の中で紹介されるほどの偉大な成果を、米国で上げられた。帰国してからは数々の古代の技術に関する調査研究に熱中して、ベストセラーになる本を書いている。さらに、「男はつらいよ」の寅さんの熱烈なファンであり本まで書いていて、この名作映画を振り返るNHKの特別番組に依頼されて出演するという、また違った局面もある。
 この三つに共通するのは、面白いと思ったものは何であれ、全力を挙げて打ち込むことである。このお話では、寅さんは出て来ないけれども、最先端の半導体と古代の技術が見事に結び付けられていて、志村さんでなければ聞けないお話であった。
 まずは、日本の伝統的な職人の素晴らしさを示す。能力としては、研ぎ澄まされた感性を持っていて、豊富な知恵の塊であり、その姿勢においては自信と誇りを持ち、責任感があって、しかも謙虚であり、さらに、凛としていることを強調された。
そこで、古代の技術として話されたのは、五重塔、たたら製鉄、木工、瓦の四つである。
まずは五重塔だが、三重から九重まで含めると、日本には塔は500以上もあって、それが、千数百年の歴史の中で40回以上もの超大地震が生じたにもかかわらず、倒れたものは一つも無いという。この巨大な建造物は、最大では96メートルの塔があったというが、クレーンが無い時代に、いったいどうして建てたのか。さまざまな知恵を駆使したに違いない。
 その塔の中心に心柱があって、それが、制振装置として働いて、地震に耐えたのである。心柱は東京スカイツリーにも採用されていて、今では有名になっているが、古代の不思議とも言える技術である。
 この巨大な柱は、初期には地面に接していたが、時代を経て、宙づりになった。この心柱という仕組みをいったい誰がどのようにして思いついたのか、私は不思議に思っていて、質疑の時間にお伺いした。それは、まったく分からないというお答えであった。
 私の思いつきに過ぎないのだが、経験から生まれるとしたら、巨大地震は滅多にないが、台風は年に何度も来るのであり、台風による揺れを減らすのに心柱が効果があると気づいたかもしれないと、その考えを申し上げた。しかし、それを知りようはなく、謎としておくしかないようだ。
 木工に関しては、鋸と鉋がない時代の加工の巧みさに驚く。巨大な樹木を、手斧と槍鉋で、柱や板に加工するのである。切り倒した木材を、まず打ち割り法で割っていく。それで、かなり精密に割ることができるようだ。
 そこで、半導体が登場してくる。シリコンウェハーを今以上に極めて薄く切るのに、結晶面に沿って割っていくと言う方法が考えられ、それが合理的で、その方が性能の面では優れているはずだという。これは、槍鉋での加工にも言えて、台鉋で削った板に比べて、表面の水をはじく能力が良くて、染み込みが少ないという。木が持つ本来の構造を強引に壊してないからである。
 材料を、高度な装置で強引に加工するのではなく、材料の基本的な構成を活かして加工するのが理にかなっていると思わせる。特に木材に関しては、古代からの寺社の建築技術において、それを気づかせるものが多い。
 なお、手斧も槍鉋も、古代のものは現存してなくて、法隆寺、薬師寺などの古代の柱の削り跡を基にして再現している。法隆寺の棟梁である西岡常一さんの依頼で、土佐の野鍛冶である白鷹幸伯が創ったのだ。
鉄は、錆の話から始まった。鉄は風雨に晒されるとすぐ錆びてボロボロになるが、それは赤錆であって、黒錆が生じると、内部には浸透せず、むしろ保護してくれる。したがって、法隆寺、薬師寺の釘が、千数百年後にも残っているのである。なお、法隆寺再建の用いた古代の釘も、白鷹さんが創った。
 なぜ千数百年も持つのか、それに関連するのがたたら製鉄の炉の仕組みにあり、それを詳しく話された。しかもそれが半導体に結び付く。たたらの鉄は、純度が非常に高い。シリコンウエハーも、イレブンナインの純度が要求される。その共通点が、ゾーンメルティングであるという。部分的に溶かしながら、不純物を減らしていくのである。古代の人は、ゾーンメルティングという原理は知らなくても、経験と知恵でそれを実現していたのである。
 古代の釘は、純度が非常に高いから錆びないのである。現代の釘は、生産性と加工性を上げるために、さまざまな金属を混ぜている。白鷹さんにも十数年前にこの会でお話をお伺いしたが、鉄は、時代と共にある面では劣化していったという強烈な印象を受けた。なお、志村さんは白鷹さんとも親しく、高知まで行って、釘づくりを体験している。
 鉄は非常に面白い材料であると志村さんはいう。一般には古くて新しみのない材料と見られているが、まだまだ新しい可能性が開けるのではないかと思わせる。
 最後が瓦であるが、その素晴らしさは、非常に長い年月にわたって家を守ることと、生活の面では雨を漏らさず湿気を抜いてくれることであるという。日本の瓦は、その二つにおいて非常に優れている。人間国宝の瓦職人と志村さんは共同で、長い間、瓦の研究を続けてきている。その優れた性能をいろいろと話されたが、これも加工法において、半導体と結び付く。
 それは、原料にする練った粘土の塊を切るのに、ワイヤを用いることである。古代から現代の最先端技術と同じ加工法を用いていたのだ。ワイヤを用いることによって、切り屑を最小にして、大きなものを速やかに切ることができる。古代も最先端も、人間の知恵の働かせようは同じである。
 ところが、現代の瓦は、古代のような素晴らしい性能を持っていない。それは、30-40年も経つと建て替えるのがいまの住宅であり、それを求めないからである。
 これが、考えさせられる重大な問題で

性格の異なる多様な機器を生産する現場/東芝メディカルシステムズ 訪問

《と   き》2013年6月18日

《訪問先 》東芝メディカルシステムズ(株) (栃木県・大田原市)

《講  師 》常務 統括技師長 内蔵啓幸氏
《コーディネーター》放送大学 名誉教授 森谷正規氏

 2013年度前期第3回は、東芝メディカルシステムズの那須事業所を訪問し、医療機器の生産現場を見せて戴いて、内蔵(くら)啓幸常務統括技師長から「東芝が目指してきたCT開発の経緯、今日の挑戦」と題するお話を戴いた。 東芝は、良く知られているように、レントゲンと言われた時代からX線装置を開発、生産してきて、MRI、X線CTなどの最先端の医療機器を、日本では先頭を切って開発してきた企業である。アベノミクスで安倍首相が強調している成長分野の有力なものが医療機器であり、今後への期待は大きく、まさに時宜を得た訪問であった。
 生産現場は、X線装置、CT、超音波装置を見せて戴いたが、機器自体の詳しい構造や機能についての説明があって、実物を前にしての説明であるから、よく理解が出来た。CTは、極めて大型で複雑な構造をしていて、それがいかに進展してきたのかのが良く分かった。超音波装置は、対照的に小型であり、かなり量産的な製品である。それらの生産現場を見て、医療機器の多様性というものを認識できた。医用検体検査装置も生産していて、それは見ることはできなかったが、おそらくまったく異なる装置であるだろう。
 やや意外であったのは、工場に入るのに、靴のままで良かったことだ。エレクトロニクスが核になる高度な機器であろうから、工場はクリーンルーム的であるかと思っていたのだが、そうではなく、超音波機器のプローブの生産だけは、クリーンルームで行われていた。CTが代表的であるが、電子というより電気機械の面が強いのだという印象であった。
 医療機器は、非常に高価格の製品であるのだが、超音波装置は小型であり、内部は見なかったが簡易に見えるので、それほど高くはないだろうと、およそどれほどの価格であるのか、聞いてみた。
 案内を戴いた方はやや口を濁していたが、最も高度な装置は1000万円ほどであるとのことであった。この装置は大きめの洗濯機ほどの大きさであり、その高さにびっくりした。隣にホンダの方がおられたので、「車とまったく違いますね」と言ったら、「車は安すぎます」と、苦笑していた。
 CTについては、価格は今は公表していないとして言って貰えなかったが、数年前、その時点での最高機種は、五〇数億円とおっしゃった。もっとも、「それで買って貰えたら、儲かるんですけどね」と付け加えられた。

世界の3強に対抗するには

 見学の後の内蔵さんのお話は、まず、世界の医療産業全体の状況から始まった。医療サービスの世界全体では、年間500兆円の市場であり、その中で医療機器は25兆円ほどとなっている。
 問題は、日本は医療機器の世界市場では強力とは言えないことだ。現状では、輸出よりも輸入が多いという状況であり、先端産業では、このような分野は他にはないだろう。その大きな理由の一つは、しばしば言われるのだが、日本企業は治療機器に積極的には参入しないことによると言える。生命に関わるので、敬遠しているからと言われる。
 もっとも、死に至る恐れはない診断装置は、エレクトロニクスと高度な機械技術によるもので日本の強い分野でもあり、欧米とほぼ並んでいる。しかし、そこにも大きな問題があると察することができた。五つの主な診断装置の世界シェアを詳しく話されたが、世界で強いのは、GE、シーメンス、フィリップスであり、日本は全企業を合わせて、それぞれ1社に対抗できる規模である。
 ここに、日本の産業に共通する問題点があると言える。世界の3強は、それぞれの国で、ほぼ1社で独占している。しかし、日本は、数社が激しく競合している。この点については、質疑の時間に、問題提起として述べておいた。
 もっともCTは、国内では東芝が圧倒的に強く、したがって3強と互角に戦っている。
いずれにしても、日本が医療機器の分野において世界市場で大きく伸びていくためには、技術を越える大きな課題があると言わねばならない。
その問題はさておいて、この場では、東芝がCTにおいて、いかにして技術開発を進めて、現在の世界でのトップレベルの地位を確保しているかというのが、内蔵さんのお話の核心である。

 三つの方向への多様な進展であるCTの技術開発

 そのCTの技術の進展について、極めて詳しく具体的に話された。まさしく日進月歩であり、これが医療機器の技術進歩だと、改めて強く認識した。CTに関して言えば、目指すべき目標と課題が実に多いのであり、それによってさまざまな方向への進展が求められる。
大きくは三つ挙げられるが、第一は時間であり、診断時間を短くしなければならない。第二は、診断する部位を広げることである。第三は、分解能を高めることである。そのそれぞれにいかに取り組んできたのかを、詳細に話された。まったく絶え間のない技術開発の連続が、CTである。このような技術開発は、他にはないのではないか。
 興味を引いたのは、その過程において、第三世代から第四世代へ、さらに第五世代へと開発を進めていって、結局は、第四、第五は、開発して一部は製品化したものの、問題点があって本格的な採用には至らなかった。
 一方で第三世代が抱える問題点を解決するのが現実的であって、今はその方向へ進んでいることだ。技術的に非常に細かなことになるので、内容には入らないが、半導体などに見られるようなひたすらの性能向上への一本道の開発ではないのがCTである。それは、人間というきわめて複雑な対象を扱う技術であるからと言えるだろう。

 米国市場でいかにしてシェアを高めたか

 世界市場への展開については、米国市場においての低かったシェアをいかに高めたかというお話が示唆的であった。シェアが低かった理由は二つあって、一つは、操作をする技師にとって、東芝製は操作が繁雑に過ぎて評判が悪かったことだ。日本では、患者一人一人に対応して、細かに変えることができる利点を打ち出していたのだが、米国では、決まったパターンでの操作が求められる。日本人のきめ細かさに対応する機器が、海外では通用しないということであり、他の分野にもある重要な課題だ。そこで、操作パネルをすっきりさせるなど、操作の面での改良を行った。
 二つ目は、新製品の高度な性能を、撮影時間の短さや分解能などの数字で現していたが、それが現実にいかなる利点であるかについての説明になってなくて、何がいいのか理解して貰えなかったことである。性能を数字で示して、素晴らしいでしょうというのは、日本の製品に多く見られる問題点である。そこで、米国で医師と組んで、その高い性能が診断の上で具体的にいかなるメリットをもたらすかを明らかにして、それを基に売り込むようにしたということである。医療機器においては、特に重要なことである。
 考えて見れば、この二つともに、さまざまに異なる現地の状況に合わせていかに売り込むかという、これからの日本企業の共通の課題である。最先端の高度な技術製品である医療機器においても、この問題があったのであり、心すべきことであると痛感させられた。
 医療機器は、高度であり、複雑であり、多様性があるという面で、日本企業が大いに力を発揮できる分野である。その部品や素材において、多くの企業が力を注いで、世界市場において大きく伸びて欲しいものである。
 なお、余談として付け加えると、福島原発事故でにわかに広く知られるようになった放射線被曝の問題があって、CTは、一回の診断で6ミリシーベルトほどの被曝があり、かなり大きいとされた。この数値が一般的に言われていて、ご存じの方が多いだろう。ところが、東芝のCTでは、今は被曝は0、1から0、2ミリシーベルトほどに過ぎないという。CTの検査を受けるのに、放射線被曝は、まったく心配することはありません。

 森谷正規



新型N700Aに至る東海道新幹線の開発、今後の日本の高速鉄道構想/JR東海 森村勉氏

《と   き》2013年4月25日 
《講  師 》東海旅客鉄道(株) 代表取締役副社長 森村 勉氏
《コーディネーター》放送大学 名誉教授 森谷正規氏

 

 「イノベーションフォーラム21」の13年度前期第1回は、森村勉JR東海副社長から、「高性能新型N700Aに至る東海道新幹線の開発と今後の日本の高速鉄道構想」というお話をいただいた。
 最初はN700Aで何が進んだのかということであるが、定速走行装置と地震対策が大きなものであった。地震の際のブレーキを15%アップして、0系の時代には制動距離が4キロ程度であったが、N700Aはから2、8キロ程度に減らしたということである。
 次に新幹線全体の話に入ったが、いまでは海外諸国で走っている列車と比べて、正確さが断然優れているのが、日本の誇るところである。1分以上の遅れを遅延とするのだが、平均的には、遅れは0、6分とごく僅かである。海外で講演をする際には、毎年の遅延を図で示すが、最初は単位を入れないそうだ。すると、聞いている鉄道関係者は当然、時間だと思う。そこで、分ですというと、仰天するという。
 日本の新幹線が誇るのは、安全と正確さであるということだ。また意外であったのは、新幹線がフランスのTGVなどより、車両の幅が広いということだ。海外は広軌であるから広いとばかり思っていたが、在来線を利用しているために、高速鉄道だからといって、車両の幅を広くするわけにはいかない。一方、日本は新幹線を広軌にして、また専用の路線であるために、車体を大きくすることができた。
 そこで、1列車の乗客数は、新幹線が格段に大きい。しかも、1時間に最大で15本走らせている。日本の新幹線こそが、高速大量輸送機関である。私は、TGVが速度記録を次々に高めて威張っていたころ、あれは、輸送機関というよりスポーツカーだと皮肉を言っていた。
 このN700Aは、東海道区間を最高時速270キロで走る。JR東海は、営業速度をどんどん上げようということはしない。力を注ぐのは、やはり大量輸送である。そこで大きな課題は、「のぞみ」「ひかり」ばかりではなく「こだま」まで、すべての列車を時速270キロ走行可能な車両に置き換え、それによってダイヤをすっきりさせて、輸送能力を大きくすることであった。
それを実現するには、15年もの長い年月を要したという。それまでの間、速度に対応する諸施設を早くから整備しないといけないのであり、先行投資が膨大な額になる。我慢の15年だと森村さんはおっしゃっていた。高速鉄道を進化させるのが、他にはほとんど見られないたいへんな経営上の難しさを持っていることが良く分かった。

 後半は、新幹線における技術開発のお話である。まず、鉄道は、航空機や原子力とは、開発の性格が大きく異なるとおっしゃった。航空機や原子力は、演繹的な開発であるが、鉄道は帰納的な開発という根本的な相違があるという。開発の基になる理論があれば、演繹的に開発ができるのだが、鉄道は、理論はなく、現象に基づくものであるという。
 それを具体的に言えば、フィールドデータ分析を基本とするということである。そこで、大型試験機による数々の試験を行って、また線路を走っている車両から、日常的に、各種のデータを取る。いま走っている新幹線の車両には、非常に多くのセンサーが搭載されているという。それは膨大な量になるのであり、そのデータを分析することによって、多くのことが分かって、開発を進めることができる。

鉄道は、自然の中を走り、街を走り抜けるが、それは場所によって状況が異なり、しかも日々異なっている。それがまさしくフィールドであって、新幹線はそれに適応しないといけない。そこで、フィールドデータが最も重要になり、それを分析して、開発の基盤とするということであろう。
 確かに、一般の機器、システムとは性格が大きく違っていて、開発の方法論も根本的に違うのである。フィールドデータ分析というのが、お話の中で、最も印象に残った言葉であった。

 開発の内容としては、地震対策を主に話された。中でも、ロッキング脱線について詳しかった。これは、車両が浮上して横にずれて脱線をするものである。大型の装置で実験し、観察し、シミュレーションを行ってさまざまな類推をして、地震によって脱線しないような対策を考え出すのだ。その内容は、非常に詳細にわたった。それをここでは詳しくは述べないが、来るべき東南海大地震に遭遇しても、新幹線は安全であろうと安堵することができた。
 日本はこれから、世界に向けて、社会インフラの各種のシステムを開発していくのが、新たな大きな方向である。その社会インフラにおける問題、困難性、開発の考え方などが良く分かるお話であり、多くの企業に非常に有益であったと思う。

(文責 森谷正規)

 

 

 

次世代型補助人工心臓『エバハートの開発と実用化に向けた夢と苦闘』/  東京女子医大 山崎健二氏・ミスズ工業山崎壯一氏

《と   き》2013年5月9日 
《講  師 》東京女子医科大学 心臓血管外科 主任教授 山崎健二氏
      (株)ミスズ工業 取締役会長 山崎壯一氏
《コーディネーター》放送大学 名誉教授 森谷正規氏

 

「イノベーションフォーラム」2013年度前期の第2回は、「次世代型補助人工心臓エバハートの開発と実用化に向けた夢と苦闘」について、山崎健二東京医科大学教授と山崎壮一ミスズ工業取締役会長のお二人からお話しいただいた。なお、壮一会長は、健二先生のお父上である。
 健二先生のお話は、人工心臓の歴史から始まった。世界で最初に開発したのは、大西洋を横断飛行した米国のリンドバーグであり、1935年のことであって、歴史は非常に古い。心臓はポンプの機能であり、人体の臓器の中ではシンプルであるから、早くから開発の努力が続けられた。
 だが、体内に完全に埋め込む型の人工心臓は困難性がきわめて大きく、体外に置いた装置で駆動する補助型が実用化に至っているのが現状である。
 これは重症心不全の患者のためのものであり、心臓移植が最終的な治療手段となるが、それまでのつなぎとして、補助型人工心臓を用いる。
 もっとも、米国などと違って日本は、臓器提供者がきわめて少なく、したがって人工心臓は長期の利用となるので、より高度なものでなければならない。長期になれば、感染症、血栓塞栓症を発症して死亡することが少なくないので、それを防がねばならないのである。
その最大の問題は、ポンプの回転軸のシールの部分において、血液が熱で凝固することであった。そこで、理想的な血液シールを探し出して創り出すというのが、最大の課題であった。
 健二先生は、心臓外科医として仕事を始めたが、1990年に人工心臓に関わりができた。当初は技術が非常にやっかいなものと見ていたが、患者にとっての意義が大きく、ライフワークにしたいと思い始めた。そこで、91年にわずか二人のサンメディカル研究所を設立して、取り組むことを決めた。
 93年には、米国のピッツバーグ大学に研究留学した。そこでは、血栓がメインテーマであり、一方で自ら設計して試作を行って実験を行う日々が続いた。それまでの人工心臓は、血液を送るのに人間と同じように拍動を用いていたが、効率が悪く機械が大きくなる。そこで、ポンプで水流を作って連続的に送る方式を採ることにした。
 したがって、シールとともに大きな課題は、ポンプとその機能である。これがまさしく医工の連携を必要とする根本的なところである。その双方を自らやり遂げることになった。
米国から帰って、本格的な研究に取り組んだが、幸いにも、JST(科学技術振興機構)が、10億円の補助金を出してくれて研究は大きく進んだ。
やがて成果が上がってきて、ヤギでは823日という非常に長期の実験に成功した。これは海外と比較しても格段に優れたものであった。特に日本では長期の使用が必須になるので、自信が高まってきた。
そこで、2005年に臨床での治験となるのだが、これが医療機器、特に生命に直接関わる機器での非常に困難な問題をもたらすことが、先生のお話で痛感された。まずは、日本での初めての治験であり、風当たりが強い。当時は医療事故がしばしば問題になっていて、大学もきわめて慎重であり、特別の委員会を設けて、厳しく監察する。
 また、最初の治験者が問題だ。最初は納得してくれたが、貴方が日本での第一号だというと、考えさせてくれという。しかし、数日後に患者の父親から電話があって、医学の貢献のために受けたいという。健二先生はその間、万一のことを考えて、断ってくれた方がいいとまで思ったという。
その治験が大成功であった。大きな装置を持ち歩かないといけないのだが、ほぼ寝たきりの患者が、日常的な生活に戻ることができたのである。
治験者の多くの事例が紹介されたが、みなが普通の生活に戻って、本当に幸せそうであるのを見て、他の諸々の技術にはない非常に大きな意義が医療機器にはあることを実感できて、まさに感動するお話であった。
 なお、体外の装置は次第に小型化されてきて、いまでは小さめのカバンほどで、手軽に持って歩くことができる。
 2009年には治療機器として認められて、現在では全国の23の施設で、心臓病患者への対応ができるようになっている。
 また米国の大学で治験検討会が行われて、エバーハートは世界で最も優れた補助型人工心臓であると認められている。
先生のお話をお伺いして、実にたいへんな勇気を持った方であると驚嘆した。それには二つあって、一つは、いま述べたように治験に進むことであり、もう一つは、非常に立派な大きな建屋の研究所を建設して、本格的な実用化に踏み切ったことである。先行きを見通のが非常に困難なはずで、巨額の投資と多数の人員の採用を伴うのであり、大きな勇気がなければとてもできないことである。
その実用化、企業化については、壮一会長からお話しいただいた。
 まずは人工心臓に至る布石としてのお話だが、服部グループとも深く関わる諏訪の時計業であり、スワセイコーの設立に関わって、株式を持っていて、それをこの人工心臓の開発と事業化につぎ込むことができた、また、メガネも業としていて、コンタクトレンズに早くから取り組んで、眼科診療所を設けていて、医療にも関わっていたということである。

 会長のお話には、事業化にまつわる多くのエピソードがあった。ご夫人が、「健二のために株を使いなさい」とおっしゃったこと、セイコーのパリ所長をしていた人物を引っ張り込んだこと、この分野の何人もの著名な大学教授の知遇を得たこと、きわめて精密な部品を作るのに、IHIに600万円も出して依頼したのだが、自社の者がそれくらいは俺たちが作るといったことなどである。
だが圧巻は、医療機器にからむさまざまな困難の突破である。純チタンが必要だが、鉄鋼メーカーは、1キロのような少量の話に乗ってくれない、バッテリーでは、大手の電機メーカーには、命にからむものはだめと断られる、高性能磁石でも断られて、科学技術庁長官の尾身幸次を通して話をつける、コンデンサーもいくつかのメーカーに断られたということであった。
 大手メーカーは、臆病なのである。勇気がまったくないのだ。
 厚生省では、田舎のベンチャー企業にそんなことができるかと言われる。国税局とは、開発への出資を、それは寄付金扱いだと言われて、さんざんやり取りをして、ようやく認めて貰った。
小さな組織が、革新的な技術に挑戦するのは、この日本においては、多くの壁があると、改めて実感した。アベノミクスでは、成長分野として医療機器を挙げているのだが、この壁をなくすのに、政府が力を注がねばならない。

 

 



世界初超大画面フィルム型ディスプレイ“シプラー”/篠田プラズマ 社長 篠田傳

《と   き》2013年3月27日 
《講  師 》篠田プラズマ(株) 代表取締役社長 篠田 傳氏
《コーディネーター》放送大学 名誉教授 森谷正規氏

 「イノベーションフォーラム21」の12年度後期最終回は、神戸の「篠田プラズマ(株)」を訪問して、篠田傅会長兼社長にお話をいただく会であった。篠田さんは、PDP(プラズマ・ディスプレイ・パネル)の父と言われ、富士通において実用出来るフルカラーのPDPを日本でそして世界で最初に開発された方である。NHKや大手の電機メーカーがこぞって開発に大きな努力を投入していた中で、ダークホースの快勝とも言える快挙であった。その感動の開発物語は、『イノベーション 日本の軌跡 4』に詳しく描かれている。私がコーディネータを務めたのだが、篠田さんとは10年振の再会であった。
 まずは、超大型のプラズマディスプレイ「シプラ SHiPLA」を見せていただいた。幸運にも、前日に新聞発表するための今の時点で最大の縦2メートル、横6メートルの巨大なディスプレイを組んでいて、それを見ることが出来た。これは1メートル角のディスプレイを12個繋いだものである。目の前に圧倒する大きさで立っていて、しかも、すぐ近くで見ても映像は精細に映し出されている。
 巨大ディスプレイの開発実用化の歴史は長く、野球のスタジアムや街頭でいくつか見かけることが出来る。だがシプラは、それらとは次元が違うものであると直感した。というのは、これまでの巨大ディスプレイは、はるか遠くの映像を見るものであった。つまり、非常に多くの観客、通行人に見せるために大きくしていたのだ。ところがその巨大ディスプレイは、近くに寄ると、画素が大きいために映像がとても粗くなって見られるものではない。
ところが、シプラは、2-3メートルの近くで、目の前に聳え、視界から外れるほど横に広がるような巨大な映像をくっきりと見ることが出来るのだ。篠田さんは講演では、これは感動を伝えるものだとおっしゃったが、まさしくそうである。
 このシプラの特長は、これまでの巨大ディスプレイで見かけた太い線の繋ぎ目がなく、ほとんど気にならない細さであり、またディスプレイがフレキシブルで、曲げること可能であることだ。
 こうした特長が活かされて、いまだに見かけることは稀である巨大ディスプレイを、近い将来にあちこちでしばしば見るようになるという予感がした。
篠田さんのお話は、今回も感動的であった。根底にある開発の基本精神は、10年前のお話と同じであり、「ロマン」、「夢」、「愛」である。ロマンから開発の動機が生まれて、最高のレベルのものを開発しようとする夢となり、それを実現するために必要であるのが「愛」というのである。
ただし、開発への努力の方向が、10年前とは大きく異なっていて、それは新たな感動を生むものであった。富士通でのプラズマの開発は、開発資金は乏しく、ほぼ一人だけで苦しい状況で挑戦したのだが、幸い上司に恵まれて、心置きなく開発に没頭することが出来た。技術の壁を突破することに全力を傾ければ良かったのだ。
 ところが今は、ベンチャー企業としての挑戦であり状況は大きく異なる。失敗したら、相当な額の投資は回収出来ず周囲に迷惑をかけて、社員を路頭に迷わせることになる。だが、篠田さんは、資金面で非常に苦労しながらも、苦しさは見せず、明るく将来への大きな希望を持って開発と会社の運営に力を注いでいる。
ところで、今、日本の大型ディスプレイは惨憺たる状況にある。プラズマも液晶も、開発実用化では日本が世界を大きくリードしていたのだが、韓国勢にやられてしまった。特にプラズマは、パナソニックが最後まで奮闘したが、液晶に敗れる結果にもなって、火は消えかけている。一方で、有機ELディスプレイが着々と開発成果を上げてきて、大型ディスプレイにも進出し始めている。プラズマは、もはや過去の技術ではないのかという懸念が大方の人にあるだろう。私にもそれはあった。
 しかし、篠田さんのお話を聞くと、その懸念は解消された。まずプラズマは、埃の影響が少なく、したがって、液晶や有機ELのようなクリーンルームでの生産が必要なく、設備投資がはるかに少なくていいという利点がある。また、日本が韓国勢に敗れた大きな原因が、コスト低下のためにパネルの巨大化が不可欠であり、そのための膨大な投資において日本企業は不利であったことにあるのだが、シプラは、それほどの巨大な設備は必要ではない。1メートル角のディスプレイを、必要なだけ作って、繋げば良いのだ。
さらに、シプラが大型ディスプレイと根本的に異なるのは、規格化されたきわめて大量の製品を作るのではなく、一つ一つが異なる製品を受注して生産することである。同一の製品の膨大な量の大量生産、大量販売で、日本は韓国に敗れたのだが、シプラは、そうした製品ではない。これは、これから日本企業が進むべき有力な方向の一つである。
肝心であるのは、個別の商品の市場開拓である。すでに各所への導入が始まっていて、天文科学館、美術館、ショウルーム、モーターショー、百貨店、市の危機管理センターなどであるが、ユニークであるのは、本を広げた形状のディスプレイに仕立てたものである。その微妙な曲がり具合を作ることが出来るのだ。このフレキシブルの特性は、応用範囲を大きく広げるだろう。自由奔放なデザインを可能にするのであり、卓抜なデザインの巨大ディスプレイが次ぎ次と誕生して、大きな話題になって、市場の広がりを急速に拡大する期待が持てると予感した。
 なお、フレキシブルと言えば有機ELだが、篠田さんのお話では、まだ技術的に確立されてなく、かなり難しそうだとのことである。
 篠田さんのお話を聞きながら頭に浮かんだのは、これまで日本の技術は、難しいことに挑戦して、困難を乗り越えてきたのだが、いっそう難しい領域に入っているのではないか、その突破に目が集中してしまって、他を見ていないのではないか、そして、ようやく突破して実用化に成功しても、大量生産の段階で韓国に抜かれてしまうのである。
そこで

英国より受注した高速鉄道車両の開発とプロジェクト成功の経緯/日立製作所 笠戸工場

《と   き》2013年1月18日

《訪問先 》(株)日立製作所 笠戸工場 (広島県・下松市)

《講  師 》技監 鈴木 學氏
《コーディネーター》テクノ・ビジョン代表、元帝人(株)取締役 研究部門長 相馬和彦氏

 

 平成24年度後期の第4回は、平成25年1月18日に日立製作所の笠戸事業所を訪問した。笠戸事業所は今回が初めてではなく、近年では平成20年4月17日にも訪れ、当時の電気グループ長兼CEO鈴木學執行役常務より「車両事業への取り組み -日本が培った世界最先端技術と国際展開-」と題し、日立製作所の歴史的な変遷から事業・技術開発を含めたご講演で、日立製作所のものづくりの基本を伺ったことがある。今回は同じ鈴木學技監より、英国への車両輸出という快挙に絞り、製造現場に密着した内容のご講演をお聴き出来ることになった。

高速鉄道分野では世界をリードする立場になった日本の鉄道技術でも、鉄道発祥の地である英国への鉄道輸出は、鉄道技術者の長年の夢であった。交通機関の中で、鉄道は国毎に異なる固有文化を有しているため、技術に優れているだけで簡単に受け入れられるものではなく、ある意味では文化の輸出に通じる点がある。先端技術を含めた広い視点からのお話しをお聴き出来ることを期待して訪問した。

最初に笠戸事業所 事業所長兼笠戸交通システム本部長の正井健太郎氏よりご挨拶をいただいた。笠戸事業所は創立92年を迎えたが、汽船→蒸気機関車→新幹線と最初から輸送機関に関わってきた。クラス395で英国向け車両輸出に成功し、ロンドンオリンピックで好評を得たことが、現在の受注に繋がった。日本の高速鉄道は世界で高い評価を得ており、ブランド化している。E5系、E6系、N-700A系、豪華寝台列車「七つ星」等が作られて来た。笠戸工場は海外への車両輸出のためのマザー工場として位置づけている。

次いでDVDによる会社紹介があった。力を入れているのは、環境対応車両であるA-trainで、匠の技をデジタル化した技術が使われている。いくつかの具体例が紹介された。また車両が出来るまでの製造工程の紹介もあった。技術は、コーポレート研究所や協力企業との連携で構築している。製造現場に対応した人材育成にも力を入れている。

日立製作所および笠戸事業所の概要が、荒川賢一副事業所長より説明された。日立製作所の社員は、2012年3月期に単独で32,000人、連結で323,540人、売上は同時期に単独1兆8000億円、連結が9兆6700億円、国内比率57%、海外比率43%となっている。

日本の鉄道システムが日本を世界一の鉄道王国にした。それを支えるのが、①高速・高密度運行、②安全性と運行の正確性である。日立は日本唯一の総合鉄道メーカーとして、すべてのハードおよびシステムを手掛けている。

国内市場は頭打ちだが、海外では未だ伸びる余地があるので、ここに進出する。1,300億円を3,200億円に増大させたい。海外では英国、東南アジア、ブラジルに注力し、笠戸は世界一のマザー工場を目指している。

 

次いで工場見学を行った。概要を以下に纏めた。

  1. 歴史記念館
    久原房之助が、笠戸を東洋のマンチェスターにしたいとの願望から、1917年に汽船の製造を目指し、塩田に日本汽船笠戸造船所を設立した。たまたま第一次世界大戦後の不況により、汽船は全く造ることが出来ず、汽船は無理と判断して小平浪平が日本汽船を買取り、蒸気機関車の製造に転換したのが日立製作所笠戸工場の創設となった(1921年)。歴史記念館には、事業や製品の変遷が多数のパネルや製品展示により分かるようになっている。展示品には大型のものはなく、小型が中心。
  2. 大型機械加工工程
    新幹線の先頭構体を製造する工程。従来は熔接していたものを、削りだしに変更した。正確な工作が可能となり、軽量化、省エネになった。削りだした部材を熔接する。
  3. NCセンター
    一般的な機械加工を実施。
  4. 台車組立工程
    メンテは長期に顧客が行う慣習があるため、台車は顧客が支給する。この台車にモーターなどの部品を装着し、車両に組み立てる。
  5. 空調装置組立工程
    部品は車両1台毎に全部纏め、1個でも落ちのないように確認している。組立は2ラインあり、組立後に全数検査してから出荷する。配管や電気配線は、実物体で図面通りに曲げたり繋げたりしている。
  6. 桟橋 車両を出荷するための桟橋。
  7. 構体組立工場 E5系2台を組立中。
  8. ペイント工場
  9. 配管・電装工場 東部野田線車両、新幹線客車が実装中。
  10. 天井工作工程 天井の工作を用意にするため、車両を逆さまに反転する。
  11. 下部(床下)装置取付工程 外部突起を最小限にして、空気抵抗をなくす。
  12. 床下・屋根上結線工程
  13. 配管・配線工程
    新幹線は横張り、電車は縦張りするが、これはストレスの関係から。
  14. 内装・艤装工程
  15. 車両試験場

 短距離ではあるが、工場内で走るところまではテストし、ばらしてから顧客に送る。顧客の所で再度組立て、テストしてから引き渡す。

 

工場見学から戻った後で、鈴木學技監より「英国より受注した高速鉄道車両の開発とプロジェクト成功の経緯」と題する講演をいただいた。以下には要旨のみ纏めた。

 日立製作所は、蒸気機関車に加えて電気機関車を1921年に製造開始し、電気と蒸気双方を国内で唯一製造する企業になった。国鉄の民営化に伴い、より大量・高速に、より安全・快適な輸送が進み、高速車両はアルミ製が標準になった。

 日立の作ってきた車両の歴史を見ると、大体30年毎に新車両に変わっている。また日立の鉄道事業内容も、車両製造から保守、運行、電力供給、信号、駅設備などを含めたトータルソリューションの提供へと進化した。運行システムは唯一であり、トータルソリューションを提供出来ることが、グローバルな輸出で優位に働いた。

 日本の鉄道は、1872年に英国より機関車を輸入し、新橋-横浜間が開業されたのが原点であるが、2008年に始めて英国への車両輸出が成功したのは感慨深い。鉄道技術は、1960年代に車、飛行機との競合が激化したため、鉄道自体の進化を迫られたことで発展した。

 日本の鉄道車両は構体強度が弱い。スピードアップする過程で、軽量化が必要だったことが原因である。速度を220km/hから300km/hに上げる過程で、車体材質が鋼鉄からアルミ合金に替わり、重量は980トンから715トンに減少した。

 海外展開は新技術開発により可能となった。①軽量、高剛性アルミ車体、②交流回生駆動装置、③信号のデジタル化による安全・安定輸送システムの三つである。ブレーキは、碓氷峠での実用化を想定し、国鉄時代から開発を継続していた。

 海外で英国市場に注目したのは、自国に鉄道車両産業を持っていないこと、欧州鉄道メーカーの品質や対応に悪評価をもっていたことなどがあり、日本の鉄道システムの品質、信頼性へ大きな期待があったことによる。ただ、英国では車両メーカーが保守まで実施しているのに対し、日本では保守はJRがやってきたため、その対応が求められた。

 日立は英国への車両納入で2000年と2001年に2回失敗しており、そこから得られた教訓を生かして取り組んだ。2003年には車両リース会社に企画書を提出し、様々な企業努力によって2005年に正式契約調印に漕ぎ着けた。提案したClass395は、ユーロスターの英国内インフラ改善を目的とし、AshfordとSt.Pancras間を、現行83分掛かるところ、37分で結ぶことが出来る。メンテはJRと組み、アクセスチャージは重量軽減で安くし、鉄道事業者のメリットがあるように工夫した結果、3社が応募したが、日立の入札が確定した。

 実務では、車両の長さや英国・欧州規格への適応で苦労した。新幹線は車長も25mと長く、床下に余裕があるが、Class395は20mと短く、其の中に新幹線装備を詰め込む必要があった。また新幹線のように高架独立線路ではなく、在来線を利用しかつ戦時に片線で上下運転をするため、正面衝突を想定し、運転手をその際に保護する構造が要求された。またトラックとの衝突も考慮する必要があった。

 車両には様々な部品が必要であるが、国産で英国の規格が取れていない部品については、欧州で調達する必要があり、日本と欧州を網羅するsupply chain managementの構築が大変だった。

 英国では車両の保守は車両メーカーが行うことになっているので、保守のための車両基地をAshfordに設置した(2007年)。保守にはJRとの協力体制で臨んだ。2007年8月には、第一編成の車両が約束よりも早く英国に上陸し、これも珍しいこととして好評だった。2007年11月には、エリザベス女王の臨席のもと、St.Pancras駅の開業式が行われ、2009年12月にはClass395を運行する正式営業を開始した。

 Class395の成功を振り返り、プロジェクト成功の鍵を列挙する。

  1. 英国サイドとの役割の明確化(現地ローカルの重要性)
    顧客、ステークホルダーとのインターフェースは英国サイドで実施、サブコン管理、設計・製造は日本サイドで行う。
  2. No surprise approach
    顧客を含む全てのステークホルダーを巻き込んだプロジェクト管理を行う=one team。
  3. キーマイルストーンの厳守(Must do culture)
    プロト納入、St.Pancras駅開業、preview service
  4. コミュニケーションの重要性 日・英・独複数拠点のコントロール
  5. 異文化の尊重(チームワーク)
  6. 決してあきらめない

 Class395はその後の運行で、更に評価を高める出来事があった。2009年11月、2010年12月には英国は記録的大雪に見舞われ、ユーロスターを始めとする大部分の列車が運休となる中で、Class395は運行を確保し高い評価を獲得した。また2011年2月時点で、全英の電車で月間最高の信頼性(無故障走行記録 16万マイル)を達成した。これを車両の売値に反映させることが次の課題である。

 英国市場に対しては、2012年7月に契約したIntercity Express Programme(IEP)の具体的進展、Network Rail社への運行管理システムの納入、ファイナンス事業への進出などを通じ、車両メーカーから保守事業者、鉄道トータルソリューションプロバイダーへと脱皮を図って行きたい。

 国内鉄道事業者の収入が伸び悩むため、設備投資も頭打ちとなっているが、世界を見ると09-11年14.5兆円/年が15-17年17兆円/年と成長が期待されている。公共投資としての鉄道建設プロジェクトは、米国、ブラジル、インドなどで検討されており、魅力的である。ただ米国でのプロジェクト数は、財務的困難さのため、16から10に減少した。

 こういう環境下で危機感を持った欧州メーカーは、欧州内規格を統一し、欧州域外を含めた国際規格に適用しようという運動で、囲い込みを推進している。また中国は、国内の高速鉄道推進で世界一の高速鉄道王国を目指しており、圧倒的な生産数で車両性能を向上させている。

 車両メーカーは変貌する世界市場への対応を迫られているが、その方策として考えられるのは、①オペレーターへ積極的に関与、②民間資金の活用による鉄道整備、③円借款による新興国の鉄道整備などが上げられる。

 今後日立製作所の鉄道事業としては、世界市場の拡大をチャンスと捉え、変化を敏感に捉えて積極果敢に対応し、国内の技術開発を競争力の源泉とする姿勢が重要になる。

 講演後に質疑応答の時間を持った。以下に要旨のみ纏めた。

  1. 英国への車両輸出の仕事で、技術・規格以外に文化や考え方の差で一番苦労したのは何か? またそれをどのようにして克服したか?
    → 文化や考え方に差があった。日本の鉄道に乗って貰い、その差を肌で感じて貰ったこと、日英鉄道会議を毎年開催して議論したことで、相互に理解が進んだ。
  2. 調達先が各国に分散したことで、調達が難しかったのではないか?
    → 欧州の部品メーカーは、問題点を言っても直してくれない。日本の信頼出来る部品メーカーに進出を依頼中である。特にノイズに弱く、情報が直ぐに消えてしまうのが問題。
  3. 車両が30年毎に変わってきたとのことだが、次はリニア-か?
    → リニアはコストが高く、グローバルな普及は?

 今回の笠戸事業所では、各国固有の文化ともなっている鉄道車両で、英国進出に見事成功した製造現場を見学し、成功に辿り着くまでの経緯をつぶさにお聞きすることが出来た。構造や複雑な規格をクリアし、各国に散らばる部品メーカーからの調達網を構築して、期限前に車両納入に成功するためには、プロジェクトメンバーの多大のご苦労があったはずである。成功の鍵として、「決してあきらめない」が上げられているのは、その証であろう。車両メーカーの日立製作所が、保守や整備から始め、ファイナンスに進出し、トータルソリューションプロバイダーへと脱皮していることは、日本製造業がグローバルに勝ち残る一つの道を示唆している。ただ鉄道の世界でも、化学や他の業界と同じく、国際規格という名の囲い込みが出来つつあることは、大きな危惧である。国際規格の設定は、一企業の努力だけでは手に余り、業界全体、国全体として対応して行かないと、日本企業は国際規格の枠外に取り残されてしまいかねない。この点で、早い時期から業界・政府の関与が強く望まれる。(文責 相馬和彦)

単層カーボンナノチューブ(CNT)の製造技術と用途展開/日本ゼオン 荒川公平氏

《と   き》2013年3月11日 
《講  師 》日本ゼオン(株) 取締役 常務執行役員 荒川公平氏
《コーディネーター》放送大学 名誉教授 森谷正規氏

 

「イノベーションフォーラム21」の2012年度後期の第5回は、日本ゼオンの荒川公平取締役常務執行役員の「単層カーボンナノチューブ(CNT)の製造技術と用途展開」というお話であった。

 まず驚いたのは、CNTと言えばノーベル賞の有力候補と言われるNECの飯島澄男さんが頭に浮かぶが、荒川さんは、飯島さんの創造研究より10年程も前の1982年に日機装において研究に取り組み、気相流動法と言う製造法を考え出して、基本特許を取っていたことだ。もっとも当時は、カーボンナノチューブという名称はなかったが、きわめて細い炭素繊維ということでは同じである。
荒川さんはその後、富士フィルムに移って光学フィルムの研究開発で大きな業績を上げたが、さらに日本ゼオンに引っ張られて光学材料事業の指揮を取り、2005年に産総研の研究者から、一緒にCNTをやらないかと強い誘いを受けて、再び取り組み始めた。産総研は「スーパーグロース法による単層CNT」という性能的に有望なCNTを開発していて、その製造法での協力が欲しかったのだ。
 最初にCNTの詳細と研究の歴史についての詳しい話があったが、早くから世界で多くの人が研究に取り組んでいたことを知った。そこで思ったのは、革新的な技術には、大きく注目される前の揺籃期があるということだ。一大革新技術に進展すると気づかずに、ちょっとしたことから偉大な成果を取りこぼすというのが、技術の歴史であり、それを知っておくことは重要である。
話の核心は、スーパーグロース法CNTであり、これは高速合成技術であって、生産性が大きく向上する可能性が高く、しかも、純度が99・5%以上であって、性能的にも非常に優れている。
 CNTの実用化がなかなか進まないのは、コストがグラムで数万円、数十万円ときわめて高く、また純度が低いせいである。スーパーグロース法で、その壁を突破していく期待が大きい。性能的には、直径が大きい、比表面積が大きい、長尺のものができる(100ミクロン-数ミリ)などもある。
現在、このCNTは、産総研との共同プロジェクトで大量生産を目指した大型の実証プラントが建設されていて、これは全長が12メートルの本格的なプラントである。これによって生産されたサンプルの提供も始まっている。
その応用として、まず本格的に取り組んでいるのが、キャパシタの開発である。とりあえずは小型情報機器用であるが、将来は乗用車、建設機械の蓄電システムへの利用の可能性がある。
 この開発は、産総研と日本ゼオン、東レ、日本電気、帝人、住友精密工業で組織された技術研究組合によって行われている。
さてこうしてCNTの応用はいかに開けていくか。それについては、CNTの数多くの優れた特性を基に、現在開発が進められているものについて具体的に話をされた。それを挙げると、熱伝導特性が良いので、少量加えることによって、鉄並の熱伝導率を持つゴムの開発ができる。またアルミと複合して高伝熱財ができる。電気伝導特性を利用して、導電性ゴムができる。伸縮性の有機ELディスプレイへの応用も研究されている。
長期的な可能性については、エネルギー分野とエレクトロニクス分野が有望である。燃料電池、色素増感型太陽電池、リチウムイオン電池などがあり、プリンテッドエレクトロニクスが開けて、きわめて革新的なものとしては単一電子トランジスタがある。
問題は、それらにいかに現実性があるかだ。そこでやはり大きな要因は生産コストである。ここで、話を聞きながら、あることに思いついた。導電性ゴムなどでは、きわめて少量だけ交ぜればいいのだ。0・01%という例もあった。つまりこれは「味の素」である。パラパラ振りかければ、美味しくなるのと同じように、ほんの少量加えるだけで、性能大きく向上するのだ。それであれば、少々高くても良い。CNTはきわめて高価であるから、実用化はかなり先だという思い込みは捨てなければならない。現に、すでに多くの企業が応用開発に取り組んでいる。産総研と技術研究組合は、生産技術は極秘にするが、応用に関する技術は公開する方針である。
そこで思い出すのは、20年ほど前に情報関連技術の開発で言われた「この指、止まれ」型の開発である。これからは、核となる技術を自社で囲い込まずに公開して、多くの企業を呼び込んでこそ、成功するというものだ。ところが、それは米国が得意で、日本企業は積極的ではなかったために、敗れる羽目になった。CNTでは、できるだけ多くの企業が参加して、日本が先行せねばならず、そのチャンスが目の前に来ている。
なお荒川さんのお話では、最後にCNTの安全性に関して詳しい内容のものがあった。きわめて微細であるので、体内に入ると発ガンの恐れがあると言う問題だ。それについては深い研究が実施されていて問題のおそれは非常に小さいようだが、いずれにしても確証がなければならない。この安全性について、日本が先行して、国際的な安全基準、標準でりーどすべきという議論が行われた。

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