- 2013-05-23 (木) 11:41
- イノベーションフォーラム21
《と き》2013年5月9日
《講 師 》東京女子医科大学 心臓血管外科 主任教授 山崎健二氏
(株)ミスズ工業 取締役会長 山崎壯一氏
《コーディネーター》放送大学 名誉教授 森谷正規氏
「イノベーションフォーラム」2013年度前期の第2回は、「次世代型補助人工心臓エバハートの開発と実用化に向けた夢と苦闘」について、山崎健二東京医科大学教授と山崎壮一ミスズ工業取締役会長のお二人からお話しいただいた。なお、壮一会長は、健二先生のお父上である。
健二先生のお話は、人工心臓の歴史から始まった。世界で最初に開発したのは、大西洋を横断飛行した米国のリンドバーグであり、1935年のことであって、歴史は非常に古い。心臓はポンプの機能であり、人体の臓器の中ではシンプルであるから、早くから開発の努力が続けられた。
だが、体内に完全に埋め込む型の人工心臓は困難性がきわめて大きく、体外に置いた装置で駆動する補助型が実用化に至っているのが現状である。
これは重症心不全の患者のためのものであり、心臓移植が最終的な治療手段となるが、それまでのつなぎとして、補助型人工心臓を用いる。
もっとも、米国などと違って日本は、臓器提供者がきわめて少なく、したがって人工心臓は長期の利用となるので、より高度なものでなければならない。長期になれば、感染症、血栓塞栓症を発症して死亡することが少なくないので、それを防がねばならないのである。
その最大の問題は、ポンプの回転軸のシールの部分において、血液が熱で凝固することであった。そこで、理想的な血液シールを探し出して創り出すというのが、最大の課題であった。
健二先生は、心臓外科医として仕事を始めたが、1990年に人工心臓に関わりができた。当初は技術が非常にやっかいなものと見ていたが、患者にとっての意義が大きく、ライフワークにしたいと思い始めた。そこで、91年にわずか二人のサンメディカル研究所を設立して、取り組むことを決めた。
93年には、米国のピッツバーグ大学に研究留学した。そこでは、血栓がメインテーマであり、一方で自ら設計して試作を行って実験を行う日々が続いた。それまでの人工心臓は、血液を送るのに人間と同じように拍動を用いていたが、効率が悪く機械が大きくなる。そこで、ポンプで水流を作って連続的に送る方式を採ることにした。
したがって、シールとともに大きな課題は、ポンプとその機能である。これがまさしく医工の連携を必要とする根本的なところである。その双方を自らやり遂げることになった。
米国から帰って、本格的な研究に取り組んだが、幸いにも、JST(科学技術振興機構)が、10億円の補助金を出してくれて研究は大きく進んだ。
やがて成果が上がってきて、ヤギでは823日という非常に長期の実験に成功した。これは海外と比較しても格段に優れたものであった。特に日本では長期の使用が必須になるので、自信が高まってきた。
そこで、2005年に臨床での治験となるのだが、これが医療機器、特に生命に直接関わる機器での非常に困難な問題をもたらすことが、先生のお話で痛感された。まずは、日本での初めての治験であり、風当たりが強い。当時は医療事故がしばしば問題になっていて、大学もきわめて慎重であり、特別の委員会を設けて、厳しく監察する。
また、最初の治験者が問題だ。最初は納得してくれたが、貴方が日本での第一号だというと、考えさせてくれという。しかし、数日後に患者の父親から電話があって、医学の貢献のために受けたいという。健二先生はその間、万一のことを考えて、断ってくれた方がいいとまで思ったという。
その治験が大成功であった。大きな装置を持ち歩かないといけないのだが、ほぼ寝たきりの患者が、日常的な生活に戻ることができたのである。
治験者の多くの事例が紹介されたが、みなが普通の生活に戻って、本当に幸せそうであるのを見て、他の諸々の技術にはない非常に大きな意義が医療機器にはあることを実感できて、まさに感動するお話であった。
なお、体外の装置は次第に小型化されてきて、いまでは小さめのカバンほどで、手軽に持って歩くことができる。
2009年には治療機器として認められて、現在では全国の23の施設で、心臓病患者への対応ができるようになっている。
また米国の大学で治験検討会が行われて、エバーハートは世界で最も優れた補助型人工心臓であると認められている。
先生のお話をお伺いして、実にたいへんな勇気を持った方であると驚嘆した。それには二つあって、一つは、いま述べたように治験に進むことであり、もう一つは、非常に立派な大きな建屋の研究所を建設して、本格的な実用化に踏み切ったことである。先行きを見通のが非常に困難なはずで、巨額の投資と多数の人員の採用を伴うのであり、大きな勇気がなければとてもできないことである。
その実用化、企業化については、壮一会長からお話しいただいた。
まずは人工心臓に至る布石としてのお話だが、服部グループとも深く関わる諏訪の時計業であり、スワセイコーの設立に関わって、株式を持っていて、それをこの人工心臓の開発と事業化につぎ込むことができた、また、メガネも業としていて、コンタクトレンズに早くから取り組んで、眼科診療所を設けていて、医療にも関わっていたということである。
会長のお話には、事業化にまつわる多くのエピソードがあった。ご夫人が、「健二のために株を使いなさい」とおっしゃったこと、セイコーのパリ所長をしていた人物を引っ張り込んだこと、この分野の何人もの著名な大学教授の知遇を得たこと、きわめて精密な部品を作るのに、IHIに600万円も出して依頼したのだが、自社の者がそれくらいは俺たちが作るといったことなどである。
だが圧巻は、医療機器にからむさまざまな困難の突破である。純チタンが必要だが、鉄鋼メーカーは、1キロのような少量の話に乗ってくれない、バッテリーでは、大手の電機メーカーには、命にからむものはだめと断られる、高性能磁石でも断られて、科学技術庁長官の尾身幸次を通して話をつける、コンデンサーもいくつかのメーカーに断られたということであった。
大手メーカーは、臆病なのである。勇気がまったくないのだ。
厚生省では、田舎のベンチャー企業にそんなことができるかと言われる。国税局とは、開発への出資を、それは寄付金扱いだと言われて、さんざんやり取りをして、ようやく認めて貰った。
小さな組織が、革新的な技術に挑戦するのは、この日本においては、多くの壁があると、改めて実感した。アベノミクスでは、成長分野として医療機器を挙げているのだが、この壁をなくすのに、政府が力を注がねばならない。